2019.12.24

すっかり恢復。その勢いで年をまたいでこんがらがっている予定を整理し、明確にした。カレンダーに反映させるとなるほど忙しない。このまま一月までは落ち着きなく動き回ることになりそうだった。そうやって用事がたくさんあるといいことがあって、それはひとつひとつの用事の重要性が相対的に下がっていくことだった。たくさん本を読むと何がいいってたとえばそこに書かれている登場人物にいちいち感情移入しなくなるのがいい、感情移入の有無が作品の是非の判断に関係しなくなってくるのはすごくいいことだ。自分が気持ちよくなることよりもずっと面白かったり楽しかったり刺激的だったり救いだったりすることが読書にはたくさんある。この多読濫読の効用はそのまま用事がたくさんあることの効用に応用が利くかもしれない。もしくは自立とは誰にも依存しないことではなくて、うまく複数に分散した依存先をなるべくたくさん持つことだという数年前からのトレンドに重ねてもいい。とにかく一個の用事に全身全霊傾けたり、これしかないという切実さに賭けなくてよくなるから健全だった。ものごとに適度に無頓着であること、他人や自分に対して適度に無関心であることは、健康にとってとても大事。

私は結婚して!名字も変えて!子どもも産んだけど!

それはLGBTQ差別や女性差別にあらわれる思考停止を容認したわけではないんだよ!

既婚子持ちというだけで「あっ、貴方も異性愛規範バンザイの人ですかね?お仲間ですか?」って判断されるのもなかなかしんどいぞ。

https://twitter.com/otakukonyakusya/status/1209108526892605441?s=20

 

子どもが生まれてから、私は私の幸せをラベリングされている感じがとてもあって、

「子どもがいて幸せでしょ??」のラベルを貼られて、自分の幸せが決めつけられてるみたいな違和感がとてもあったんです。

複雑な色をしていた私の人生が「既婚子持ちで幸せなお母さん」一色になったみたいな感じ。

https://twitter.com/otakukonyakusya/status/1209103886490845184?s=20

 

色々と拗らせた人間なので、郊外のショッピングモールとか行くと、

(自分も子育て中のくせに)「何だろうこの異性愛家族愛規範のつよい空間は‥」と吐きそうになる謎の性質がある。

https://twitter.com/otakukonyakusya/status/1209106702353612800?s=20


『お母さん二人いてもいいかな!?』の再読に触発されたこの一連のツイートに頷いていた。僕たちに子供はいないけれど、20代前半で早々に結婚をしてしばらく感じていたしんどさってこの「あ、なんかラベリングされて単純化されたな」というものだったな、と思う。入籍したころからずっと、いま僕たちが最高なのは僕たちが最高だからであって結婚が最高なわけではない、ということを言い続けている。だからこそ、自分たちの思う以上に家族愛に関する規範が強いんだなと思わされる言動に出会うたびびっくりした。

僕はショッピングモールはわりと好きで、だから吐きそうにこそならないが、なぜ好きかというとたぶん空港に似ているからだと思う。行くたびに異邦人になる。ここは自分には関係のない場所なんだな、というような感慨を覚えたくて行くところだった。既婚者になってもこの感慨は変わらず、フードコートのマイルドヤンキー的家族を眺めては、遠いな、と思う。

既婚であることや正社員であることやヘテロセクシャルであることは、それだけで「規範バンザイの人」であることにならない。それらの性質を引き受けることがすなわち思考停止の容認を意味しない。どんな個人も「複雑な色」をしている。それはなるべくはっきりと言い続けていきたいと思う。それと同時に、既婚であることや正社員であることやヘテロセクシャルであることがそれぞれに誰かにとっては規範の強化や抑圧に直結していることも忘れられない。万人の万人による抑圧、という言葉が浮かぶ。誰もが誰かにとっての規範でありえてしまう、暴力でありえてしまうということを、ただしく怖がること、それはぜったいに誰も傷つけてはいけないと潔癖になることでもないはずだ。ちょうどいいダーティさというものを、それこそ具体的な人間関係ひとつひとつについて見つけていくことしかできない。自由な自己責任の社会というのは、誰もが無用とラベリングされ死んでいくに任される可能性をもつ生権力の社会というだけではなく、誰もが誰かに対して「権力者」でありえてしまう社会でもあるのだ。ただ権力を規範を抑圧を批判するだけでは自分に跳ね返ってくる。自分こそが権力や規範や抑圧でありうることを自覚したうえで、ある程度のところでうっちゃって、楽しく元気に自分の暮らしをやっていく。そのバランスを、いつでも探っている。