2020.01.04

昨年の俺め。先月はバタついたし、今月からはゆっくりしようと思っていたのになんだかすでに用事がたくさんある。それで昨年の俺め、とうらめしく思うことになる。年が改まるとなにかしらがリセットされる錯覚があるが、詰めた予定はそのままだし、肉体疲労だって引き継がれる。年をまたごうがなんだろうが、結局は昨日の翌日に過ぎず、ダメなものはダメなままだし、いいものはいいままだし、一つ一つ地道に積み重ねていくほかない。わかっていてもするのが錯覚の厄介なところで、それで気持ちだけはリセットされたような顔して、状況は散らかったままだった。出勤したもののデスクはがらんとしていて、僕は年の瀬の早いうちから休んだので、後続の皆さんは年始をゆっくり休む。それでほとんど誰もいないしだから個人タスク以外なにも進捗のない事務所で、これならもうすこし休めたな、とぼんやり思う。去年もいい年だったし今年もいい年だろう。私生活においてはつよい楽観を持つ。イランのニュースにさわさわしたり、生活をマクロにとらえると不安はいつだってある。勝手に大勢を巻き込む運動会は規模にかかわらず嫌いなので、当日は風邪を引いたり骨を折ったりして引き籠っていたい。


ここ二年だか三年、年始に去年読んだ本のリストを公開していた。今回は日記本に収録するのでというわけでもないのだが、まあいいやという気がしていて、僕の読書記録に興味があるような人がもしいらしたら本を買ってくださいね、ということにしようと思った。とはいえTwitter には毎月挙げていたのだから、知りたいと思えば知ることはできる。この半端さがちょうどいい気がしている。いちど無料で公開したものに本の形が与えられるとそこに値付けが行われる、これはなんだろうなという思いはなくはないが、紙代や製本にかかるコストというだけでなく、やっぱり本の形で読むことには大きなモードの変容というか、読む側の身体感覚が全然違うから、お金がかかっても本の形を作りたいというのは当然のことのようだった。本は、情報に値付けされたものではなく、読書の引き起こす諸感覚にこそ価値があるのだ、というような。電子も読まなくはないが、僕の身体には紙がどうしても馴染む。それは情報としてはわりとどうでもいいものとして本を読んでいるからではないか。本は、積んで背表紙を眺めるともなしに眺めたり、リュックに詰めたときの重みと手に持ったときの重みとがちがうこと、ページをめくるときの指の腹のくすぐったさといった感覚されるものとして気持ちがよくて、内容はその感覚に沿ったり裏切ったりしながらいまここにない五感を喚起するためにある。いい本は気持ちがいい。フィジカルに働きかける物体としての気持ちのよさと、自分の身体が分解されていくような形而上の気持ちのよさが混在している。小説だろうとエッセイだろうと哲学書だろうと何だろうと僕には同じことだった。紙を触覚することから、どんな感覚にでもアクセスできる。


みどりの窓口で名古屋までの切符を買って、一万円の価値はずいぶん変わった、と思う。高校生のころまで、一万円というのはそれこそお年玉をかき集めてようやくできる大金で、一年に一度手にできるかどうかというその金額はじゅうぶん非日常だった。いまでは平気な顔して一度に使える。そういえば帰るという感覚もずいぶん変わった。これまで長いあいだ名古屋に帰り、東京に戻ってくる、そんな感覚でいた。上京して十年になるいま、むしろ名古屋に行って、東京に帰ってくる、と感じるのは十年という月日よりもこちらに帰る場所ができたというのが大きいだろう。今回は一人での帰省なので余計だ。いまから今晩奥さんに会えないことがさみしい。