2020.01.30

午前中に図書館に出かけ、コーヒーを淹れてお昼過ぎまで『構造素子』を読んでいた。読み終えた。ゆっくりし過ぎた、と思いつつ荻窪へ。きょうのTitle ではイ・ランが流れていていい気持ちだった。納品後、14時過ぎだったかに遅めのお昼。ことぶき食堂のブタカラ定食。Title のホームページの「アクセス」には荻窪のおすすめコーナーがあって今日はこれに従う形。帰りにささま書店も覘く。


ほんとうは月末までが有効期限の松竹系劇場の鑑賞券があるので、それで『キャッツ』をみるつもりだった。それからロサで『死霊の盆踊り』にはしごしようと思っていた。けれども時間的にどちらかひとつを選ぶしかなく、そもそも僕はいま何が観たいかと言われたら『ジョジョ・ラビット』なので、鑑賞券分のお金を惜しんでそこまで観たくもない『キャッツ』に行く時間があったら『ジョジョ・ラビット』を観たかった。松竹系劇場では寅さんくらいしかかかっていなくて、『ジョジョ・ラビット』も『パラサイト』もTOHOだった。そういえば最近シネコンに行くとしたらすっかりTOHOだ。それで新宿に向かう頃には結局お金を使うのだったら今日が最終日の『死霊の盆踊り』こそ見逃すべきではないという気持ちになり急遽池袋に向かった。受付で一般一枚、席は後ろのほうがいいんですけどこの辺で左右空いてるところありますか、とK列以後のエリアをぐるりと指すと、大体全部空いてますね、と言われる。今日のお供は『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』で、気楽なエッセイも楽しいのだけどたぶんこの人はがっつり書いた論考のほうが面白いんだろうな、と思いながらさらさらと読んでいた。開場まで15分。だんだん楽しみになってくる。開場。赤いシートの座席が余計にわくわくを掻き立てる。観客は僕を入れて八人か九人。一組を除いて一人客で、こんなもん一人で来るなんて酔狂なもんだと自分のことを棚に上げて思う。オープニングの、作り手の名前に続いてタイトルが大写しになるところで「わ、映画っぽいねえ」とにこにこして、有名な白昼の真夜中ドライブににやにやして、それで二人目の裸踊りが始まるころにはちゃんと飽きていた。すでに作中人物が夜明けが来たら私たちは消えてしまう、と会の進行が押しているのを気にしだしていて、ああ、夜が明けて終わりなんだなと了解するのだけど、そこから夜明けまでがやたら長い。開始15分ですでに終わり方まではっきりとわかっているのに、特に何も展開せず、ただ延々と裸踊りが続く。さっそく眠気が来て、ここで寝たらもったいない、この退屈を味わいに来たんだ、と必死に手の甲をつねる。売店でビールを買うか一瞬迷ったが、素面でみてこそバカらしいとすぐに思い直した。よかった。飲んでいたらもう寝ていただろう。ささみの様な健康な身体が、特にうまくもない踊りを披露する。足さばきはほとんど画角の外にありとにかくおっぱいが撮られる。おっぱいに向けられたカメラには技術どころか意思もなく、面白味もなく、欲情もなかった。欲情のまなざしのないところにでんと置かれたおっぱいは、ただおっぱいだった。献血ポスターが話題になっていた時期に、おっぱいそのものを猥褻物のように語るナンセンスな議論があったが、おっぱいはただそこにあるだけであればエロくもいやらしくもなんでもなくただ人体の一部だった。そりゃそうだ。人体の一部なんだから。『死霊の盆踊り』は実質ひたすら裸踊りを楽しむエロビデオのようなものだが、レートはGらしい。ただのおっぱいは全年齢対象なのだ。そりゃそうだ。ただの人体なんだから。お粗末な演技、雑な段取り、ただ撮るカメラ、虚無の筋書き。そのすべてがおっぱいをただおっぱいとして成立させる。「To love a cat is to be a cat」という台詞が、明らかにカンペを読み上げる形で発声されて、ドンキで買えそうな猫のコスプレの人が猫踊りを踊りだす。猫の衣装はおっぱいとお尻が丸出しになるようくり抜かれていた。あ、やっぱり『キャッツ』観なきゃ、と僕は思う。筋書きは虚無だろうが他のパフォーマンスはしっかりしているであろう『キャッツ』と、すべてがぱっとしない『死霊の盆踊り』とを較べてみたい。『キャッツ』はおそらく猫を猫としてだけ撮ったのだろう。そして、猫は犬ではないことは理解できても、猫は人ではないことを理解するのは難しかったのかもしれない。分からない、やはり観ないことには。家に帰って、エドワード・ゴーリーが挿絵を描いた版のT.S.エリオットを読む。詩を翻訳で読むことにいつも戸惑いがある。かといって原語に取り組むわけでもない。食卓では興奮気味にエド・ウッドについて語り、奥さんは自分には理解できない他人のキッチュな趣味の話をにこにこと聴いた。『キャッツ』は一緒に行くの、と同居人が訊ねるのに、行かない、と即答していた。きっぱりとしていた。