2020.02.10

今朝は奥さんが久しぶりにカー、クー、といびきをかいていた、目を覚ましそうにないのでそのまま家を出ようとしたら後ろから、いってらっしゃい、と声が聞こえて、布団からすこし身を乗り出して奥さんは声をかけてくれた、僕はもう半分外に乗り出していたので振り返りもせずにいってきますと言って家を出た。出てからちゃんと顔を見て言えばよかったなと後悔する。大切な人はなるべく例外なく毎日毎秒大切にするのがよくて、それは心の問題ではなくどちらかというと具体的な行為の問題だった。雑なふるまいはそのまま大切さを損ねる。うっかりしていたので今後ちゃんとしようと思う。


奥さんはまったく目を覚ます気配すらなかったけれど、思えば二度寝してしまって飛び起きる前、僕はなにかを奥さんに問いかけてそれに応答があったような気もしてくる。あれは僕のほうも半分以上寝ていたが、二人してほとんど寝言みたいなもので会話していたのだろうか。それとも奥さんはあの時目を覚ましていたのだろうか。二人でむにゃむにゃ言っていた気がする、という覚束ない感覚だけが残っている。


朝からアカデミー賞の授賞式をTwitter で追っていて、「#oscars」で追っているとラテンっぽい文字列のツイートが目立つ。これは毎年のことで、イニャリトゥとかを思い出しつつやっぱりアメリカ映画を見る層としてメキシコ系が厚いのかな、などといい加減なことを思う。遅めのお昼だったので作品賞くらいはリアルタイムで見られるかな、とWOWWOWのアプリを起動するもパスワードを勘違いして覚えているらしく観られないまま式は終わってしまった。すこし悲しい。でも結果はTwitter 越しでも楽しいからよかった。『パラサイト』はやっぱりすごかったもんなあと思いつつも、アメリカ映画のお祭りで、まったくアメリカ資本の入っていない作品がただ作品として評価されるということの凄さに驚く。いくら大きい賞とはいえ国際映画賞ではないんだよな、というのが僕のアカデミー賞に対する考えで、だから異国の言語で撮られた異国の作品をちゃんと一番に出来るというのは、今のアメリカの矜持というか、今でもまだこの国の発信力というのはすごいんだぞという自負みたいなものを感じて、いや違うな、すでにもう国とかで区分するのは限界きてるのはよくわかってる、ということの表明のように感じて、アメリカの、アメリカは世界である、みたいな肥大しきった自意識に愛憎を持つありふれた一人として、肥大した自意識が謙虚に行き着くことの美しさを感じた。文化は、外に開かれるから好きだった。


ちゃんと外に開かれた作品に対してお金も人気も大きな規模で流れ込んでいく社会というのはそれだけで豊かだと思っているので、文化を仕事にするのが貧乏や道楽と近似であるような身近の状況に対しては深く失望している。日本人がどうの、みたいなのはもうどうだってよくて、現実としてカズ・ヒロに見切られた社会であることにもっとちゃんとゲンナリしたほうがいい、と思う。もうここにいてはだめだ、と出ていった人たちの功績を、さも同国人の誇りのように持ち上げる恥知らずな態度に毎回ゾッとする。もちろん異言語圏での評価や資本主義における成功とは別のところで自分なりの価値を見つけていくのもいい。でもそれは、そもそも成功というものが望めないような構造を肯定する理由にはならない。今年のアカデミー賞ナショナリズムに対して自覚的なメッセージを発したからこそ、文化全体への信頼というか喜ばしさは一層増し、自国への失望はますます深くなるようだった。