2020.02.17

朝はぼんやりTwitter など見ていて、雑な認識のまま差別意識を垂れ流すダサい映画の周辺の言説の、特に推しだからと無条件に金銭的な支援をしてしまいがちなファンの心理の無邪気なダメさについてモヤモヤと考えたりしていた。うまく言語化できないというか、僕はそういう批判と否定とを区別できない心理が理解できないのでそもそも語りうる視点を持っていないのだと思う。推しの仕事を正当に評価しようという心理ならわかるが、推しが仕事を選ばない状況を肯定できるというのがわからない。ショービジネスの構造上ファンはそれでも推すしかないのだという意見については、そうした消費行動が推しにダサい仕事ばっかりさせるダメな構造を支えているんじゃないの? と思ってしまう。推しの経済状況やキャリアに対する繊細な想像力が、事務所や会社の行動原理へのそれに発展していかない、その貧しさが僕は理解できなくておそろしくすらある。いや、わかりはする。そうは言っても短期的で具体的な、目の前の現実に対しての最適解は目先のお金を稼がせてあげることじゃんというのはわかりはする。そうやって目先の対症療法だけで、未来を信じ切れないことこそを貧困と呼ぶのだという外野からの意見は空しい。けれども貧困は貧困で、批判すべきは推し本人でなく事務所や会社なので理解しているのであれば、その事務所や会社に対しての批判というのは本人のためにもなされたほうがいいし、本人は別に事務所や会社を選べばいい。そうできないしがらみがある、などという話になってくると僕はもう門外漢だから黙るしかないが、でも本当は、やりようはいくらでも考えればいいじゃんと思っている。推しが気持ちよく働ける経済圏を作ることこそがファンの役割なのではないのか。ともかく今回の映画のダサさは、作品を見ずに批判できるものであり、作品の質や狙いの問題以前のかなり稚拙なダサさであるということすら共有が困難な状況にはゲンナリするが、こうして書いていてもすでに論点がとっ散らかっているのだから、冷静にひとつひとつを分けて考えることが必要で、Twitter は論点を無尽蔵に増やしていくことは得意だが、別の論点を提示することをひとつの勝ちだと錯覚してしまう構造の様で、論点ごとに議論していくことには全く向いていないということに何度も気がつく。答えではなく問いを立てることこそが重要なのだと小林秀雄をはじめ多くの偉い人が言ったが、Twitter は問いにすらなっていない論点出しだけで満足できてしまうひとたちを量産する。難儀。ここ半月ほどTwitter はほとんど見ないで過ごしてみて、久しぶりに朝の小一時間見ているだけでこれだ。やっぱりTwitter は健康によろしくないんでないか、と思うが楽しいから結局見ちゃう。放っておけば誰の眼中にも入らなかったつまらないダサさですら、あっという間に大勢の目に触れてしまう仕組みは、黙殺されるくらいなら下品なことしてやろ、というダサい人たちを増長させ、思慮深い人たちをますます黙らせる。そうではなく、ダサい人たちが散々白い目に晒され、無視され、陽の目を見ないままでいて、思慮深い人たちの言葉がしっかりと拾われていくような仕組みというのは作れないものかな、作られてくれ、と思っている。僕はそういう意味でもfuzkue という店の存在に救われている。ほら、そういう仕組み、作れんじゃん、と思える。


こういう自分の生活や仕事と無関係なことに対しては、ワイドショーの流れるテレビに向かってブツクサ独り言を言うみたいに言葉が出てくるのに、仕事においては今日はさっぱりで、解決の糸口どころか論点すら見えてこない。確かにこじれていく会議の場で何がどうこじれているのかを把握することすら困難だった。まったく頭が働かず、怖いくらいだったが、Twitter 越しの他人事のほうが真剣に考えられるというのはどういうことなんだろうな、たぶん他人事じゃないからで、仕事のほうがうんと他人事のように感じられるからだと思うのだけど、しかし仕事のほうを何とかしないと困るのは自分なわけで、非常に困っている。


頭も体も余裕がなく疲れていたが、日記本の追加注文や増刷分の発送完了メールなどを受取ってケロリと元気になるので簡単だった。購入してくださった方のツイートなども見かけ、やっぱりTwitter っていいな、と思う。他人事の炎上をロムる暇があったらエゴサに励もう、と思うが、それでいいのだろうか。‪日記や身辺雑記というのは作品ではないというか、練度や完成度といった評価から外れた周縁の書きものだと思っている。もちろん作品未然であるがゆえにある「よさ」みたいなのはあって僕はそれがとても好きなのだけど、でもやっぱり作品ではないので評価の俎上に載せにくいものだと思っていて、だから自分の日記本を「面白い」と言ってくださるのはなんか作品でもないのにごめんなさいという気持ちがあるのだけどでもやっぱり嬉しい‬。しかし「面白い」と言ってもらえることを喜ぶこの欲望はどこから来るのか。ただ「面白い」と思わせたい一心で、雑な認識のまま差別意識を垂れ流すダサい映画が「コメディ」として制作されてしまうのではないか。だとしたら「面白い」をありがたがることそれ自体の意味を問い直すべきではないか。今日の僕はしつこいし感じも悪いし面倒臭いが、本当のところ僕の文章を読んでくださった誰かがそれを熱心に誰かに勧めてくれて、その誰かもまた僕の文章を気に入ってくれたらしいという事実がちょっとあまりに嬉しい過ぎて、一回冷静になろうといつも以上に考えが遠回りしたがるだけなのかもしれない。