2020.02.07

今日もとても寒い。家を出て五分も歩くと、足の指の感覚はとっくに冷たいから痛いに変わっていた。それできのう読んでいたボラーニョの「雪」を思い出していた。


今朝からはエンリーケ・ビラ=マタス。書かなかった作家たちの話。バートルビーの徹底的な「否」の系譜を辿るこの小説は、もうそんなの好きに決まってるじゃん、という気持ちで、楽しい。ボラーニョの、三流作家たち、三流詩人たちへのエンパシーに近いものを感じる。


彼は源泉を探し求め、逸脱することに楽しみを見いだしていたが、その一方でごく私的な性格の日記をひそかに書いていた。出版する気持ちはまったくなかった。友人たちはそんな彼の気持ちを汲みとらずに、彼が亡くなると日記を勝手に刊行してしまった。

誰もが待ち望んでいた本をジューベールが書かなかったのは、日記で十分だと考えたからだと言われてきた。しかし、そう言い切るのはばかげているように思われる。ジューベールは日記を書くことで、豊饒な創作を行っていると自分に言い聞かせていたとは思えない。彼は書くという行為の源泉を捜し求めて英雄的な探求を行ったが、日記はそのときのさまざまな出来事を語るために書かれたものなのである。

日記には、四十五歳のときに書いた次のようなすばらしい一節が出てくる。「しかし、本当のところわたしの芸術とは何だろう? 何を追求しているのだろう? 芸術を実践することでわたしは何を願い、何を望んでいるのだろう? 何かを書き、それが人に読まれていることをはっきり確認したいのだろうか? これが多くの人たちのたったひとつの野心なのだろうか? これがわたしが望んでいることなのだろうか? ひそかに、また長い時間をかけて自分に理解できるときがくるまで調べなければならないこと、それが以上のことなのである」

エンリーケ・ビラ=マタスバートルビーと仲間たち』木村榮一訳(新潮社) p.60-61


日記は作品じゃない、というのはずっと思い続けていることで、さいきんはお芝居も書いていないし、小説も書いてみたら一層小説を読むのが楽しくなるだろうという予感こそあれまだ書いていない、だから僕も作品の周りをふらふらしながら、ただ日々を記録しているに過ぎない。でもそれを、本の形にしてしまったな、という戸惑いみたいなものはいまだにどうも整理がついていない。この据わりの悪さをどうにかするためにも、今年は作品を制作したいな、文字で、と思っている。


会社での仕事ではがっかりすることも多いが、いちばんゲンナリするのは稚拙なナワバリ意識によって、組織の各所が自己防衛のため繰り広げる泥仕合に巻き込まれることだ。同一の生体の各器官が共食いをするようなナンセンス。でも、セクショナリズムは組織の必然でもある。各セクションはお互いに異なった「秘密」を持っている。複数の秘密がなぜだか最終的に一意の合意を成したかのように擬態する、それが会社の不思議であり面白さだった。秘密の爆心地をボラーニョはサンタテレサという架空の都市に置いた。会社の秘密の爆心地には、虚無が、あるいはあまりに多くの相矛盾する思惑がある。そしてこの虚しい混沌は、ボラーニョの小説と似ている。みな各人なりに懸命に生きて、不条理に消える。


 とはいえ、組織全体が意思統一されることなどなく、各所に異なる思惑があり、それに応じて各所が「秘密」を持っているのが現実である。大きくトップ/ボトムに分けても、トップ側の利益とボトム側の利益はしばしば対立し、それぞれに秘密があるから、組織全体で共有可能な書類は、双方の秘密をごまかすための「取り澄ました文体」になる。いわゆる官僚的な文体は、複数の秘密の間に成立する緩衝地帯である。

https://webdesk.jsa.or.jp/common/W10K0620?id=340


組織で働くということは、ある一つの視点、ある一つのスタンスだけを保持していればよい、というわかりやすさを放棄することでもある。自分だけでなく自部署の都合すらも相対化して、あるかもわからない全体最適を模索する。そうして「取り澄ました文体」によって、それっぽい方向性が決定される。誰が決めたかもわからないまま。自営業や小さな起業をいいものとして憧れる気分は、実はわかりやすさへの渇望に他ならないのかもしれない。意志のありかが不明確な共同体というのは、確かに不気味なものでもある。