2020.02.29

離陸して一〇分で富士山が見えたこと、その富士山がものすごく大きかったこと。久しぶりに帰宅したその日の食卓で僕は弾んだ声で話し続けて、奥さんのすぐそこにいることにはしゃいでいた。活きのいい若者が来たことで散歩に連れて行ってもらえるとはしゃぎ、はしゃぎすぎるものだから出発するころにはすでにゼーゼーハーハー息を切らしていた祖父母の家の犬たちを思い出す。かわいいバカたちだった。二年位前まで犬たちを思い出すとき、見てもいない最後の姿ばかりを想起していたが、今ではすっかり元気のいい姿や、幼い僕を容赦なく引きずって駆けていくようす、涎や草や土埃でべとべとになったTシャツの臭いなんかを思い出す。


気分が観光にスイッチしたらしく、久しぶりに『LOCUST』を持って家を出る。東京の西の端を巡るイナゴ。以前つまんで読んだのがどこだったか覚えておらず、結局頭から読み直す。地方都市はどこも同じようなものだと、どこかで思っていた節がある。高松は、地形から文化の分布図まで、僕にとっては非常に異質なもののように感知された。それで、僕はあまり区別がついていない立川と八王子と奥多摩にも──この羅列がそもそも僕の何もわかっていなさを露呈しているのかもしれない──それぞれの交換不可能性があるのだろうと今更ながら腑に落ちている。自分の今暮らしている町もそうだ。ぱっと見どこにでもあるこの土地や、毎朝すれ違うどこの誰でもいいような人間たちにも、それぞれのかけがえのなさがあるということを、こうして文字にしてみると当然すぎるほど当然だが僕はそれをすぐに忘れる。いま一度、観光客の目線で、近所を無化し異化するべきタイミングなのかもしれない。