2020.03.05

妻のクラスメイトであるダグニーの招待を受けて、作家と妻は国境を越えて伝統料理をごちそうになりにいく。夜、その家にお手伝いで通っている少年エスペンと妻は『ターミネーター2』のあらすじを実に詳細に説明する、その記述がすでになんだか面白い。年号や型番まで交えてイチから説明する、という状況の可笑しさだけでなく、それをいちいち文字にするという可笑しさまである。

 

「片方のターミネーターは、T-1000型で、もう一方のシュワルツェネッガーのは、少し旧式のT-800型。T-800型は、パート1に出てきたサイバーダイン101型とほぼ同じ能力なんだけど、ジョンの手によって思考回路の『I.C.』チップに工作が施されて、ジョン自身を守ることを使命としてインプットされていたんだ」

エスペンが言った。ほとんど、映画を現実と信じ込んでいるような酔いしれた口ぶりに聞こえた。

「ナホ、ターミネーター2のラストシーンで、ジョンと別れを惜しむT-800のいう言葉を覚えている?」

「ええ、だいたいだけど、確か「君たちが泣く気持ちがわかったよ、泣けないけどね』」

妻の英語にあわせて、途中からエスペンも、一緒に言って淋しそうな笑みを浮かべた。

そしてエスペンは、おれにもわかるように、ゆっくりと英語の科白を言い加えた。

「No fate

「No fate but we make 」

「The future is not set 」

「There is no fate but we make by ourselves 」

フェイトは運命だったよな、と妻に確かめて、おれはその英語の意味をゆっくりと辿った。

「運命ではない」

「人生は運命ではなく、自分で築くものだ」

「未来は運命が決めるものではない」

「運命ではなく、自分で創り出すものだ」

おれは、エスペンが映画に託してみている切実なものに少し触れた思いがした。映画の中で、おれが彼に励まされるシーンを演じているような妙な気分がした。

エスペン、話は明日も続けられるから、今夜はこれぐらいにして。そろそろ寝る時間よ」

とダグニーが、声をかけた。

佐伯一麦『ノルゲ』(講談社) p.210-211


ここを読んで、『やがて忘れる過程の途中』の、さまざまな眩しい瞬間を思い出すようだった。作家の見た色を確かに感じたこと、なんてことないそぞろ歩きのなかで友情が芽生えたこと、チャンドラモハンのショートメッセージ。淀み、戸惑う言葉だからこそ、ありうる触感的な交歓。とてもいいシーンだった。

あるいは『公園へ行かないか? 火曜日に』の、『ツイン・ピークス』のことを思い出す。ある作品が国境を超えること、それはその作品の分だけ、言葉や風土を超えたところで何らかの交流が成立する回路がひらかれるということだった。


作家は、ノルウェーの地で「この地での生活の中では、構築的なものに触れることがあまりに多いので」西洋のクラシック音楽を聴く気にならない。「煉瓦や石を積み上げて造られた建造物や、一つ一つの単語の意味を辞書で調べては理解する言語などとともに、それまでに聴き慣れていた音楽もまた、それ以上動かしようもない厳格さをもっているように聞こえてきて、息苦しさを覚えるようになっていた(p.346-347)」。

僕が哲学書なんかを好ましく読んだり、映画や小説の構造的な読解みたいなことをやりたがるのは、猥雑で場当たり的なこの国の風土に対する反動なのかもしれない、とふと思い当たる。制度や規範といったものを、人工物としてでなくあたかも所与のものであるかのように錯覚するように教育されてきて、それを鵜呑みにしたままでいる人たちの真面目な生徒根性に、僕は常に違和を覚えてきたけれども、僕も厳格に構築的な異国の土地にいたら、その余白のなさに息苦しさを覚えるだろうか。