2020.03.04

紅葉フェスティバル!

 

(…)頰を生き生きと紅潮させ、一心に舞う姿は、まさにゲンジ、ザ・シャイニング・ワン。コキデン太后は、継子の美しさが、これほどの熱狂をパレスに巻き起こすのが不愉快で、刺すように言いました。

「ゲンジが美しいからといってなんですか。そのうち天から神が降りてきて、さらって行くことでしょうよ」

紫式部/A.ウェイリー源氏物語 A・ウェイリー版第1巻』毬矢まりえ+森山恵姉妹訳(左右社)p.318


コキデン、ゲンジがザ・シャイニング・ワンであることは認めちゃうんだね。美形であることで老若男女が「ウホッいい男」とポッとしちゃう漫画的表現は、すでに紫式部の時代に完成されている。たかだか千年やそこらじゃ人の感性なんてそうそう変わらないということなのだろうか。もちろん変わっていることもある。倫理もルールも人が作って育てていくものなのだから、もっといいものに作り替えていくのは当然だ。より洗練された現代に生きる俺は、ゲンジがムラサキと二人してサフラン姫を笑い者にしたの、忘れないからな。


今のところ読んでいて思うのは、国境や時代を超えても耐えうる普遍の近似のようなものは、美や善といったものではなく、欲望や妬み嫉みといった俗っぽい日々の感情のほうだということだった。僕は今でも小説を読んでいて何で誰も彼もセックスの話ばっかすんだよ、と嫌になるが、セックスの話の耐用年数はすくなくとも千年はあるわけだった。閉鎖的な特殊な上流社会において、内輪ウケを気にしつつ、セックスのことばかり考え、それゆえ自身の属する環世界から思わずはみ出ることがある、というのは『失われた時を求めて』の「私」とも通じるともいえる。俗っぽい感情は、極たまに自分の狭い了見を打ち破る。だいたいは、その狭くて醜悪な視座にますます意固地に居座らせるのだけど、それでも、まったく可能性がないよりはマシ、なのだろうか。性欲が普遍の共通言語みたいにのさばっているの、わりと息苦しいな、と思う。僕は欲望ってもっと色々あるだろ、と思うというか、性欲以外の欲望をこそ読みたかった。プルーストにおいてたとえばそれは絵画に、紫式部においては詩歌にそれは見出されうる。