2020.03.23

今朝は『江戸の読書会』。上下関係や階級を強化するものとして忌み嫌われがちな儒教が、江戸ではむしろ誰もが対等に対峙できる学問として機能していた、というような話で、儒教のイメージと実態の乖離みたいなところで僕は昨年読んだ島田虔次のあるいは小島毅の二冊の『朱子学陽明学』をもちろん思い出すのだけどいかんせん何が書いてあったかもうほとんど覚えていない。なんだっけ。なんか面白かったのは覚えてる。そういうわけでほとんど何も前提知識のないまま読んでいる。


本国と違って科挙などの統一試験のなかった日本では、儒教に通じたからと言って立身出世できるわけではなかった。だからこそ、ただ学び極めるのが楽しいというような一つの知的遊戯として機能していたのかもしれない。著者はホイジンガやカイヨワを引いて、実際の立身出世にはまったく役に立たない学問にそれでも熱中するのはそれが「遊び」でもあったからだ、日々の階級は疑似的に均され、学問の習熟度や創造性だけがものをいうゲームの場が設定される、それはとても面白いことだっただろうと書いていて、それはとても面白いよね、と思った。僕は大学に行くとき、とにかく「実学」っぽいものを嫌った。社会に出てどう役立つかを逆算して学ぶより、ただ学びたいから学ぶようなものだけを学ぶのが学生の本分だと信じていたしそれはいまも変わらない。本だって読んで考えるのが面白いから読むだけだし、実利をあてにして手段としてする学問や読書にはなるべくケチをつけていたい。


考え、試し、言葉にすることはそれだけで完璧に楽しい。クレーも楽しかったから事細かく言語化した。『造形思考』を並行して読んでいて、何かを追求するとき、黙々とした実践ももちろんいいのだけど、僕は徹底した言語化とセットになっているのが好きだった。実作者の言語化は読みにくいが楽しい。手や目だけでなく、言葉を使ってあらたな地平を切り拓こうと模索すること。手や目の動きは手や目で追えるのだけど僕の手や目はそこまで鍛えられていない。言葉であれば、ゆっくり点検することもできるし、ある程度の使いかたならできるから、より楽しく面白がれる可能性が高い。言葉によって追いかけた思考の軌跡を、今度は自分の手や目にトレスしてみる。そうすると今度は目や手が鍛えられてく。僕はそういう順序だった。


日中、五月に向けた原稿が届き始める。めちゃくちゃよくて、ものすごく楽しみになる。文フリの開催があろうとなかろうと、いいものをちゃんと作ってちゃんと広げていきたい。そう思う。