2020.08.01(1-p.187)

すごく久しぶりに目覚めがスッキリで、窓の外は気持ちよく晴れていた。天気はまじ大事。

イリイチシャドウ・ワーク』がめちゃくちゃ面白い。「生き生きとした共生を求めて」が最高で、イリイチは「理論(theorica)、実践論(practica)、機械論(mechanica) の三者が、人間の脆弱さを治癒・救済する方法なのである」とする十二世紀の思想家ユーグを召喚することで、近年の科学・開発観のオルタナティブを提示する。すなわち、自然を制御・支配するものとしての科学ではなく、エコロジカルな共生関係の回復を試行するものとしての科学を。

修道院での思索の中で、ユーグは失楽園を人間と自然とのエコロジカルな共生関係の破壊と読む。つまり、豊かに自足した自然との共生関係というのは、アダムとイヴの時代において、人間の手で損なわれているという前提からユーグは始める。自然との関係を損ねた人間は本来的に「弱い」。その弱さを補うものとして科学や技術を人間は発展させてきた。一度は失われたものを補うもの、「弱さ」を作ろう杖のようなものとしての科学。それは自然を無再現に搾取・開発するためのものではない、自然との共生を取り戻すための探究として科学や技術を捉え直すヒントになりうる。

ユーグは『哲学についてのディンディムスの対話』というテクストの中で、当方の異教徒であるバラモンの王・ディンディムスに自身を仮託して、共生の回復を志向する科学というものを「哲学」と結び付けていく。

すべてのサイエンスに共通する要素は、そのサイエンスが人間の弱さをささえる杖となっている事実にほかならない、とディンディムスは論じている。われわれの知る限り、ユーグは技芸(arts)とサイエンスの発明を、人間というのにおけるある種の欠如と結びつけた最初の人であった。もとよりこの欠如への還元がユーグ自身による発明であるかどうかは定かでない。だが、サイエンスをそれにかかわる人々の弱さを治癒する方法と定義し、人間の行為によって初源に損なわれた環境のなかでなお人間が生存し続けるためにはこのサイエンスにかかわっていかねばならない、と述べたのはまぎれもなくユーグひとりの独自の発想である。この思想は、聖ヴィクトールの修道士リシャールが──彼の『抗弁書』(一一五九年頃)において──とり上げるところとなった。なお、この思想が最後に人の口の端に上ったのは、ユーグの死(一一四一年)から八十年後である。それは、十三世紀にアリストテレスが再発見された時代に形をとりはじめて今なお西欧で支配的な科学観とは正反対の、相対立するサイエンスの捉え方である。ユーグのサイエンスとわれわれのいわゆる科学とのあいだの対立点をもっと明確にするためには、おそらくわれわれはユーグの使った用語にこだわるべきであろうし、したがってディンディムスとともに、サイエンスをフィロゾフィアとして語るべきであろう。哲学として語るということは、とりもなおさず、ディンディムスのいうように、「すでに知られつくしていることをいつくしむ愛によって動機づけられるのでなく、おいしさを味わい、楽しいとわかってきたことのさらにその先を追究しようとする欲求によって動機づけられた、治癒への関心に支えられた真理の探求」として語ることを意味する。そうである以上は、これは R&Dのあり方とまったく異なる。それはまた自然を征服しようとするベーコン流のやり方と両立しえない。さらにこれはちっと重要なことだが、ユーグのサイエンスは、真理を発見してそれを公刊する目的でなされる純粋な血の通わぬ探究ではない。この「おいしさを味わい、楽しいとわかってきたこと………によって動機づけられた、治癒への関心に支えられた真理の探求」は、今日適切な名称をもっていない。

イリイチシャドウ・ワーク』玉野井芳郎/栗原彬訳(岩波現代選書)p.173-174

 

「すでに知られつくしていることをいつくしむ愛によって動機づけられるのでなく、おいしさを味わい、楽しいとわかってきたことのさらにその先を追究しようとする欲求によって動機づけられた、治癒への関心に支えられた真理の探求」! パンクスのDIY精神や、香山哲のビルドの精神に通じるものをここに感じる。イリイチはここで探究されるものを「コンヴィヴィアリティ──生き生きとした共生」と名付けた。