2020.09.23(1-p.292)

にわかに台風めいている。昨晩の寝付けなさはこれもあったな、と納得する。 『地下世界をめぐる冒険』を引き続き読んでいる。FGO の影響で読書のペースは落ちている。たぶん週に一二冊。FGOのテキスト量はすごいので、読んでいる文字量でいえばそんなに変わらないだろう。日に読める文字数はある程度決まっていそうな気がしている。地下世界は面白い。暗闇に人はなにかを見出そうとしてしまう。可能性の余白。方向感覚の喪失。それはあわいの空間だ。

昔からずっと、道に迷うことは謎に満ちた多面的な状態で、そこには予期せぬ可能性が秘められていた。歴史上、さまざまな芸術家や哲学者、また科学者が、方向感覚の喪失を発見と創造のエンジンとして称えている。物理的な経路から外れるだけでなく、なじみの世界から逸れて未知の世界へ入り込む、という意味で。 ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンは、都市で道に迷っても大事には至らない。しかし、 森で道に迷ったときと、都市で道に迷ったときでは、まったく別の訓練が必要になる、と書いた。大な芸術を創り出すためには方向感覚の喪失を受け入れ、確実なものから目を背ける必要がある、とジョン・キーツは言った。彼はこれを“消極的能力”と呼んでいる。“人間は性急に事実と理由を追い求めず、不確かさ、不可解さ、迷いの中にとどまることが可能”ということだ。ソローも迷子の状態を、自分が世界にどのような位置を占めているのか理解するための扉、と表現している。“完全に迷うまで、自然の広大さと奇異さを理解することはできない……迷って、つまり世界を見失って初めて自分自身を見いだしはじめ、自分がどこにいるかを知り、無限に広がる私たちと世界の関係を悟るのだ”と。いっぽう、レベッカ・ソルニットにとって迷うことは、自分の周囲を“味わう”究極の方法だった。人は道に迷うのではなく、みずから迷うのだ。意識的な選択であり、選ばれた降伏であり、地理が可能にするひとつの心的状態なのだ、と、彼女は書いている。 神経学的には、どれもうなずける話だ。なにしろ、道に迷ったとき、私たちの脳は最大限に開かれ最大限の情報を吸収しようとする。方向感覚を失ったとき、海馬の神経細胞は環境中の音や匂いや光景をすべて吸い上げ、方向感覚を取り戻す役に立ちそうなあらゆる情報を急いでつかみ取ろうとする。不安を覚えると同時に、想像力が並外れて活発になり、周囲の環境に敏感に反応する。森で曲がるところを間違え、道がわからなかくなったとき、私たちの頭は小枝の折れる音や木の葉がこすれる音のひとつひとつを、気の荒いクロクマやイボイノシシの群れや逃走中の囚人が近づいているしるしではないかと用心する。暗い夜には光を求めて瞳孔が開くように、私たちは道に迷ったとき、世界に大きく感受性を開く。
ウィル・ハント『地下世界をめぐる冒険』棚橋志行訳(亜紀書房) p.178-179