2020.06.01

『キッチンの歴史 料理道具が変えた人類の食文化』と『暮らしのテクノロジー 20世紀ポピュラーサイエンスの神話』を併読する。道具が人の生活様式や価値観まで変えていくというマクルーハンからなのかもっと前からなのかの歴史観はやっぱり面白い。『我々は人間なのか?』でも面白かったのは出土する最初期の手斧は刃こぼれもしていないで、つまりほぼ斧として実用された形跡がなく、ただ純粋に美的なものとしてあったようだという箇所で、『キッチンの歴史』においても土器はまず食器としてでなくまったく実用向きではないもの──先は尖っていて自立せず、装飾が施されていた──として開発され、それが鍋のような料理の道具として使われるようになるまで数千年のタイムラグがあった、というような記述が面白い。まず無用の、なんかいいものがあって、実用は後からついてくる。無用のもののよさ、みたいなことを考えるのは、特にこの不要不急なものに対する余裕がなくなってくるようなときには助かる。

 

それから『NEXT  GENERATION BANK』のブックガイドで面白そうだった『なぜ近代は繁栄したのか』もすこし読む。みすずで500ページもあるが、プルースト以降ボリュームで本に怯まなくなったというか、読みだす前に何かに頓着することがなくなったのはいいことだった。読んでりゃそのうち読めるようになる、という楽観は楽しかった。

 

将来に何が起きるかわからないような経済を国家が支持したり、その発展を奨励したりするのは矛盾しているような印象を受けるかもしれない。大きな失敗や混乱や動揺が付き物で、人々が「拠りどころを失い」、「恐怖におびえる」可能性のある経済を擁護できるものだろうか。しかし、新たな洞察を得ることによる満足感、課題に挑戦するスリル、独自の人生を歩む喜び、そしてこのようなプロセスを経て成長したときの達成感──要するに善き生──には、まさにこれが必要なのだ。

E・フェルプス『なぜ近代は繁栄したのか 草の根が生み出すイノベーション』小坂恵理訳(みすず書房) p.xv

 

のっけから気が合わなくて最高だった。ヤシャ・モンクの自己責任論を思い出す。個人の尊厳に自分は責任を負えるという自覚は不可欠だとヤシャ・モンクは言っていたけれど、そもそもあまりに多くの物事が制度的に個人の責任に切り詰められていることが問題なのであって、個人にとっての責任をポジティブに捉え返してみるのは、政治における自己責任論を解体した後にはじめて機能しうるものだろう、とその時は思った。今もここだけ読むと、成功者以外は野垂れ死ねと言わんばかりの資本主義経済の論理を、成功することを前提に屈託なく称揚しているようにしか見えない。僕の読書遍歴のうち、ここまで屈託なく新自由主義的なものや、資本主義というものを全肯定してくる本はなかった。確かにそろそろ資本主義を褒めそやす論理にがっつり付き合ってみてもいいかもしれない。