2020.10.21(1-p.325)

note で草稿を随時公開していくつもりの「会社員の哲学」がだいぶ停滞してしまっている。『ブルシット・ジョブ』が民族誌だとすれば、僕は当事者研究のような形でこれを仕上げたいのだが、当事者としての言葉の運用について、しっくりくる型がまだ見つかっていないような気がする。
 
さいきん賃労働の中で思うこと。仕事における「わからない」への対処はふたつで、調べるか訊ねるかだ。いちばんの悪手は考えることだ。共同作業において現れる不明点というのは、創造性や工夫の欠如ではなく、単なる情報共有の瑕疵や知識の不足によるものなので、個人の思索ほどむだなものはない。わからないことを前にうんうん悩んだり考えたりすることが結果につながることはまずないので、検索したり社内リソースを引っ掻き回してまずは調べてみればいいし、それでも答えに辿り着かなかったら知っていそうな人に聞くべきだ。それでもわからないままのことは、その組織の中で情報共有がうまくいっていない部分であったり、そもそもの知見が存在しないということなので、これもまた内々で悩んでも仕方がなく、情報の管理方法についてもっとよさそうな方法をさっさと外から学んでくるべきだ。
賃労働の時間において、考えたり悩んだりする時間は手が止まっている時間でしかなく、主観的にそれがどんな時間であろうとも、その組織の中では単なる停滞でしかない。僕は無駄が大好きであるがそれは自身の生活における話であって、賃労働とは効率のゲームであると決め込んでいるのでこの停滞がわりとじれったい。組織的な共同作業において、その作業内容は報告連絡相談がすべてだと言い切ってもいいほどに、認識と言語のすり合わせさえしていればおのおのの手を動かすことでなにかは出来上がるし、このすり合わせがうまくいっていないからおかしなことになる。いちいちすり合わせなくても何とかなると思っているのはナイーヴに過ぎるし、じぶんに見えているものを自明視して誰とも共有しないのは怠慢でしかないどころかそもそも共同作業の何たるかすらわかっていない。視座を自分でなく会社などの組織に置いてはたらくというのはそういうことであって、自分を殺して生きていかなくてはいけないということでは全くない。どれだけなくそうとしても残ってしまうのが自分というものだし、意識的にそうしようとしなくても周りの環境によって勝手に変わっているのが自分というものだ。自分のことばかり考えているのではなくて、自分とは別の物の見方をしている人たちと共通のものさしの前で待ち合わせるための想像力を持つほうがいいという、至極当然の話しかそこでは話されていないはずなのだが、この当然のことが難しい。同僚であれ家族であれ他人なので、いちいち言語を駆使してお互いの位置を確認しないことにはこの待ち合わせがうまくいきようもないのだけど、なぜだか多くの人はこれを怠る。
ここまで書いて分かったこととして、僕は効率のゲームとして賃労働を見ているからいちいち考え込んでしまう人を見てじれったく思うのではなさそうだ。そうではなく、仕事に限らずコミュニケーション全般として、言わなくてもわかるとでもいうような態度に対して抱く反感を労働の現場においても抱くというだけの話のようだった。何度でも言うし書くが、共有されていない情報は共有されていないので、親しさや近さと関係なしに、共有したいことはいちいち言葉にしておかないと簡単にすれ違いは起こるということを正しく理解しているほうがいい。