2020.10.27(1-p.325)

『生活の批評誌』という雑誌を、僕はとても信頼していて、じぶんで『ZINE アカミミ』という雑誌を作ろうと思ったときまっさきに参考にした。文字の組み方やレイアウトのような目に見えるところから、問いを立ててそこから数人の他人に手渡していく態度のようなものまで、広く影響を受けたというか、真似させてもらった。その最新号が八月に出て、SUNNY BOY BOOKS に出かけるときに買おうと思っていたのだけど、きのうB&B で見つけてしまったので手にとって、きょう一気に読んでしまった。これはやはり、いい雑誌だなあ。

編集長の依田さんとはほとんどお会いしたことがない。いつかの文フリで創刊号から三号までを買ったとき、ありふれた客のひとりとしてすこしだけ世間話をした程度。それは人と会ったうちには入らない。僕は親しい人ですら顔も名前も忘れるから、すでに印象すらあいまいで、ただいつものように僕はへらへらと話をしながら本を買わせてもらった、それだけを覚えている。だから僕がこの編集者であり書き手に対して抱く信頼や共鳴は、ただ文字を介してのみ行われているもので、僕は昨年出た『シスターフッドって呼べない』がめちゃくちゃに読みたかったのだけど、東京での販路を探しきれなくて諦めていた。note での記事を読んでいても、この人の格闘している違和に、僕も身に覚えがあるように思えてならなかったのだ。

僕はヘテロ男性で、フェミニズムとの付き合い方も距離もおそらく全然違う。それでもなぜか感じてしまった「近さ」の原因が、今回の号を読んで分かった気がした。それは、“まじめさ”との距離感、そして“言いそうな言葉”と“言わなそうな言葉”とのあいだで座りの悪い思いをしているということだった。僕も、子供の頃から他人から期待される“言いそうなこと”を敏感に察知できた。べつにそれを窮屈だと思ったことはない。簡単だな、とずっと思っていた。簡単なのはつまらないから、もっとやりこみがいのある言葉を求めた。それが僕にとっての映画であり、のちには批評や思想だった。映画ではやっちゃいけないことを平気でやってのけるような人がたくさん出てくる。批評や思想はすぐにはわからないようなことをわかっていく面倒臭さがあった。僕はそれらに自己プロデュースとしての“言いそうな言葉”がどんどん解体されていく面白さに夢中になった。それでもあるときから、批評や思想の面倒くささに付き合いきれない自分に気がついた。このまま先鋭化していくコンテクストを追いかけ続ける気力も能力もなさそうだし、身の回りの具体的な他者とのおしゃべりにおいて、それらが力を発揮するとは思えなくなってしまったからだ。もっとわかりやすく言葉を開くべきだな、と思ったとき、僕は僕の“言いそうな言葉”へと戻ってきたように思った。簡単な、僕の言葉。それはわかりにくいことのわからなさを無理やり単純化するようなものではないか、何度も何度もそう居心地の悪さを感じてはまた難しい方へと入り込んでいって、難しい顔をして身の回りを疎かにしだしたころに馬鹿らしくなって引き返す。そういうことを繰り返している。

まだまとまりようもない論理以前の感覚を、このようにとにかく書いてしまうこと。書いたらなるべくそのまま発表してしまうこと。僕にとって、批評ほどの練度は望むべくもなく、それでも自前の言葉で“言いそうなこと”からはみ出そうとする実践がたぶん日記だった。

最近は日記だけだと一人から出ていけない感じがしていて、それを乗り越えるために人とおしゃべりがしたい。共話のようにして考えたい。そういう気分が多分僕にPodcast をやらせているし、それはそれでだんだん面白くなってきたところだ。奥さんにも気に入ったところだけ読んでもらうから、そうしたら録音しよう。こうして文字でやるのとはまた全然違った内容になるだろう。僕はどこか声における“まじめさ”とはまじめになりすぎないことだと思っているようだった。