2020.06.24

朝は『合理的選択』。面白い。抽象化のメリットについてすごくしっくりくる。

とはいえ数字ばかりでは辛くなってくるので、マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』も持ってきていた。抽象と具象。一般と個別。どちらがいいとか悪いとかではなくて、その「あいだ」でバランスよくやっていくこと。見田/真木や木村から僕はそういうスタンスを、いいなあ、と思ってパクってきた。

 

ジジェクが主張するように、資本主義においてイデオロギーは一般に、私たちの行動によって提示され体現される信念を犠牲にしながら、まさしく内的な主観的態度という意味での信念を過大評価することにある。資本主義が悪だと(心の中で)信じる限り、私たちは資本主義における取引へ自由に関与し続けることができるのだ。ジジェクによれば、資本主義は一般に、この関与否認の構造によって支えられる。お金は本質的に価値のない、無意味な代用品だと信じていながらも、私たちは、それがまるで聖なる価値を持つかのように振舞う。そしてさらに、この振る舞いはまさにそれに先行する関与否認に依存している。すなわち、頭の中ではすでにお金に対してアイロニカルな距離をとっているからこそ、私たちは行動においてお金を物神崇拝することができるのだ。

マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』セバスチャン・ブロイ/河南瑠莉訳(堀之内出版) p.39-40


こうして文字で新自由主義や資本主義ってクソだよなあ、と言っておくことで、僕は今日も平気な顔で出勤できている。そう言われちゃうとぐうの音も出ないけれど、マーク・フィッシャーの「明晰」は、「明晰の罠」に対する〈明晰〉が足りない。そう僕の内なる真木悠介が言う。「明晰」と〈明晰〉のちがいはぜひ『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)を読んでほしいけれど、ざっくりいうと前者は世界に対する内没的な明晰、後者は世界を相対化するメタ明晰、みたいなことだ。


けさ告知を出して明日にはリリースする雑誌の二号について、はやくも構想しだしている。この調子でいけば来月も出せるだろう。


声の大きい人──比喩でなく、フィジカルな声の大きさ──に対する風当たりはどんどん強くなっていくのだろうな。飛沫へのデリカシー。相互監視の強化に対してはどうしても嫌悪のほうが大きいけれど、この点に関しては僕も嬉々としてでかい声警察になりがちである。


事務所でも自宅でも仕事の捗り方に違いはない。隙間時間の自由度が変わるだけで、事務所で本を読むわけにもいかないのでPodcast をひたすら聴いていた。blkswn のそれがおもしろくてそればかり聴いているのだけど、きょうは「MOMENT」のPodcast も試してみて、昨年末以来更新がないのがもったいないくらい面白かった。Material Driven Design、Tiny Factories。スケールを前提としない制作の体制。そのいい感じの事例を知れるのが楽しい。分業を前提とせざるを得ない大企業ではできないこと、非常にニッチな私的な制作。まさに今やりたいことが語られていた。同じようなことを考えている人はたくさんいたほうがいい。たくさんいればいるだけ、アカミミハウスみたいな、色んな人と一緒に住むといいんじゃないかみたいなのも実現しやすくなる。Tiny Factories のように、家のなかでの共同制作によって家賃ぶんのお金を稼いでいける、みたいな体制が作れたら楽しいなあ、などと妄想が膨らむ。