2020.05.17

あした晴れたら浅草あたりまで長々と散歩したい、と告げて寝たのが昨日で、晴れたのでお出かけすることにした。とても久しぶりのデートでうきうきする。

せっかくだったら帰りしなに好きなお店でテイクアウトもしたいよね、お店が16時からとのことだったので出発は昼食後として午前中はのんびり『帳簿の世界史』を読み終え、ソファで奥さんはまどろんでいて、解説で長い歴史上つねに重要でありながらほとんど正確に付けられ監査されることのなかった帳簿の歴史のブレイクスルーとしての仮想通貨という話があって、なぜなら仮想通貨とは帳簿がそのまま通貨になるようなものだあらだという指摘に、なるほどーと思い、帳簿面白いとなっているいまなら読めるかも、と買って斜め読みしただけの『blkswn paper 黒鸟雑志 NEXT GENERATION BANK』を引き出してきて、次はこれかな、と思いながらも、一方で最近の僕の最大の関心ごとである人が人を「管理」するってなんだよという文脈で、ルヌガンガで買った『反穀物の人類史』をとうとう読むぞとも決まっていて、とりあえず反穀物を試してみたらべらぼうに面白そうだった。お金、そして「管理」。それが僕のもっぱらの関心だった。

 

いよいよ家を出て、こういうとき家のメンバー間で衛生観念の齟齬があるとつらいだろうな、と思った。奥さんとは違和があったらすぐさま言語化するという信頼があるから、なんでもなく外出を提案して、こうして簡単なお出かけで気分転換を行えるけれど、暗黙の慣習でなあなあにやってきたような人たちにとって、いちいち価値観や感覚の差異と向き合わざるをえない今の状況はかなりハードなんじゃないか、という話をした。そうだね、と言われた。

 

昨晩は布団で奥さんと政治の話をしていて、散歩中もそうだった。右翼/左翼って保守/革新という意味でしかないはずなのに、なぜだかイメージが固着してしまっていて現状を左右で整理しようとするとわけわからんくなる、保守/リベラルという区分がまずすでに混乱しているよね、とか。保守/革新と等号で結ぶとしたらいまはネオリベラリズムリベラリズムのほうがまだ遠くないはずで、保守のほうがネオっていうのが直感に反しているようでわかりづらいんじゃないか、とか。友敵のような二極で考えるともうわからなくなるのが今の政治で、いちばん簡略化するにしても個人/全体の軸と、大きな政府/小さな政府の軸とで整理する必要があると僕は思っている。このへんの整理を基礎の基礎から、感情的なクソリプにおびえる必要のないところでしっかりやっておきたいよね、という話をしていて、ある程度クローズドで、政治の話を、安心して間違えたり勘違いに気が付いたりしながら、冷静に理屈の部分を準備しておく機会を作りたいなーといまは考えている。たとえばZINE の制作という名目でそういうことができないかな、とか。一個の成果物を目指して協業する、みたいなスタンスが、感情的に陣営に分かれてやりあうより手前で、自分なりの視座を練り上げるためには必要な気がする。そんなことをごちゃごちゃと話して、奥さんが大学で専攻だった史学の知識を交えながら応答してくれたおかげで、以上のようにびっくりするぐらい整理された。

 

H.A.Bookstore に到着。軒下の看板があたらしくなっていて、格好よかった。隣のレストランは路上に堂々とイスとテーブルを展開し、炎天下の中ワイングラスを傾けているおじさんの前を歩行者は必ず通ることになる。おじさんはいちいち声をかける、飲んできませんか。いいなあ。

階段を上るだけでほっとする。先日出勤ついでに大型書店に出かけたときは僕はそれも好きだけれども答え合わせのように既知の欲しい本を最短ルートで手にしていくような、スタンプラリーのような買い方をしてしまいがちだった。個人の目の届く範囲で営まれる書店というのは、来店する個人としても全部を見尽くせるかもという幻想を抱くことができるので、まだ見ぬ問いを探して棚を舐めるように見る。特に店主への信頼ができている書店では、思う存分未知を喜べる。これは今の僕にはまったくわからないが、なんとなく気になる、そしてこの棚にあるということは、僕は読めるということだ、というような。僕はそういう書店とのかかわり方が非常に好きだ。気がつくと顎に手を当てて、口も半開きにさせながら、左から右、上から下へと一冊一冊の背表紙を眺めている。夢中で眺めている。それで沢山買った。いますぐに読みだすような本ではなく、これはどこかで必ず読むことになるなという本を買った。レジのところに『ODD ZINE』があって、わあ! と喜びそれも買った。『プルーストを読む生活2』がお店に置いてあるところを初めて肉眼で見た。それでようやく『2』が出たんだなあ、という実感がやってきた。つづ井さんは、ほんと元気が出ますねえ、などとお話しして、出る。

 

めちゃくちゃに暑くて、二人ともゆだっていたのでフグレンですこし涼む。お目当てのお店は予約が必要だったみたいで、それはそうだよな、と諦めて別のお店のテイクアウトを打診。こちらは当日でもいけたというか、準備できるまで歩いたりして時間をつぶせそうだったのでお願いして、長々と散歩。駅前のベンチにはキープアウトの黄色と黒のあのテープがバッテンに貼ってあって、外でも長居はしてはいけないらしい。近所の人と思わしき上品な老人が、テープの隙間にしれっと腰かけて気持ちよさそうに日向ぼっこしていたり、剥がされたテープが足元で丸まっているまま楽しそうにおしゃべりする人たちの姿を、僕は頼もしく思った。

 

帰宅してテイクアウトした串や、同居人が作ってくれたポテサラで夕食。お酒も進んで、久しぶりに楽しい休日だった。一か月ぶりに明日は月曜、という憂鬱がやってきて、新鮮だった。存分に遊ぶことをしないと、漫然と働き休んでしまうので、休日と平日の境目があいまいになってしまうようだった。きょうはちゃんとお休みだった。奥さんと僕のために生きた。

2020.05.16

 

朝からもうダメだったのだけど、奥さんと同居人はせっせと餃子の皮のあまりでなんちゃってタコスとクレープという豪華な朝食を準備していて、おいしくて、しかし体調すぐれず、おいしく食べながらも、僕は早々と今日一日を諦める旨宣言して、思う存分ぐったりしていた。フヅクエラジオ読む。ON READING のSpotify のプレイリストを参考にApple Music をポチポチして、いい音楽を流し続けた。すこし気力が蘇ってきて、ヤーコプ・フォン・グンテン。読み終え、楽しい。楽しいという形容があってるか微妙だが、僕はこの虚無を確かに楽しいと思う。次の作文集も読んでしまう。

 

同居人がお風呂を溜めてくれたので、ゆっくり浸かりながら『帳簿の世界史』を読んでいた。スピーカーからはMagic City Hippies。

 

奥さんから歌って踊るアニメが見たい、リトル・マーメイドがいい、と具体的なリクエストがあったので、ディズニーの動画配信サービスに初月無料なので登録して、リトル・マーメイドを観た。楽しかった。アリエルの顔が好き。セバスチャンは結局何の生物なんだ。蟹? ならあの肌色の顔はなんだ。

せっかくなので夫婦そろって大好きな『ファイアボール』もいくつか観て、僕はさらにワイティティのソーも観た。結論としては、ワイティティだろうが僕はソーが好きじゃないし、まずダサいコスチュームが無理、ということだった。でもこのラストからあのインフィニティ・ウォーのオープニングにつながるのかあと思うと、この2時間強がまったく報われなくて空しかった。ガモーラのことを思い出してしまって悲しくなってきた。僕はマーベルはガン監督のGotG だけあればよくて、だからエンド・ゲームのガモーラのこと、俺はまだ、絶対に許せてないからな、という怒りや悲しさに見舞われて、しょんぼり。アベンジャーズは嫌いだ。全員一丸となった祭りなんかのために個人個人の居心地のいい場所が奪われたりするのは耐えられない。

 

きょうの夕食はワルだから、と奥さんが昼から教えてくれていて、どういうことだろうと思ったらバルの聞き間違いで、アクアパッツァや、鶏肉のコンフィ、そのほかカタカナっぽい料理がずらりと並んだ。うひょー。お酒は一口に留めたのにすっかり眠くなってしまって、僕は家でお酒が飲めない。すぐ酔っ払ってしまう。つまらない。

 

なんにもしない一日だったな、雨だと散歩もできない、と思われたが、振り返れば本読んで映画見て美味しいご飯を食べて十分すぎた。それでもまだ22時前で、途方に暮れかけたので日記を書くことにした。日々、家にいるだけでもなんだかんだ書くことはあるみたいで、でも確実に昨日のことを思い出せなくなっているというか、昨日とその前日との区別が曖昧だ。なんなら今朝のことすら、いつのことだったか実感に乏しい。

2020.05.15

昨夜は25時まで『アシュラ』を観ていたせいで、奥さんに寝付けないじゃないか夢見も絶対悪いしどうしてくれると責められながら寝た。登場人物全員が気持ちいいくらい悪人なのだけど、どうしても検察の独立性を頼もしく感じてしまい、検察組のゲスさを割り引いて観てしまった気がする。いい暴力だった。夢見は悪かった。

 

仕事をこなしつつ、引き続きヤーコプ・フォン・グンテン、モロイ、帳簿。全部おもしろい。ヤーコプとモロイが非常にいい。片方だけだとくたびれてしまいそうだったが、読み合わせがよかった。饒舌は沈黙よりずっと虚無だということをよく知っている人の文章。

 

会議中以外はTwitter を仕事用のPCの横に置いて、これ以上強行採決なんて愚行を重ねてくれるなよ、という気持ちで張り付いていたように思う。政治が注目されるのはろくでもない時だけだから、一刻も早い、特に注目に値しない行政府の実現が待たれる。近年の韓国映画を観ていて、政治がろくでもないときこそ文化は輝くなあと思っていたのだけど、同じようなことを自分の国に期待できないのが悲しい。うなるほどの金が文化に回っていてくれ。

 

明日は雨らしい。台風一号の影響か非常に頭が痛い。

 

 

2020.05.14

キャロル・エムシュウィラー『すべての終わりの始まり』を終えて、わからなさが気持ちのいい、まったく信用ならない語り手ばかりの短編集で、もっと読んでいたかった。それで続いてジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』をやりつつ、わけわからんのが読みたいモードというのは貴重なのでとうとうベケットを引き出して、『モロイ』、疲れてきたら息抜きに『ローベルト・ヴァルザー作品集3』──こちらも十分わからない──という布陣で、三冊をちゃんぽんしながら読み続けた。明快なのは帳簿をちゃんとつけるのは大事、ということだけで、モロイの現在地もベンヤメンタ学院の目的もなにがなにやらわからないまま面白かった。ついにベケットを面白がれた! これまでも『モロイ』は何度か試み、3ページも進まず放り出したが、今回はあいまに二冊挟みつつも50ページ弱読んだ。しかしどこまで読んでもいつ放り出してもおかしくない小説で、しかしずっとこれだけ読んでいたい、となるようにも思える本だ。宇野訳の残りの二作も買っておけばよかった。次いつ本屋に行けるかわからない。

 

夜は奥さんとお散歩。奧さんはきっちり五日外に出ないと顔がむくんで愚痴っぽくなるのだけど、本人は出不精で外に出ようとしないので僕が一緒に歩こうと連れ出す必要がある。祖父母の家の外犬たちは散歩のたびに文字通り飛び跳ねて喜んだが、家犬たちはいちいち嫌がり外に出てもおっかなびっくりというか外犬たちの元気に気圧されているようだったのを思い出す。あるいは粗野を鬱陶しがるようでもあった。小麦粉を求めて手近なところから四軒、ドラッグストアとスーパーを巡り、四軒目で買うことができる。歩行距離も目的も果たせて、満足のいく散歩だった。奥さんも僕もさっぱりとした。

2020.05.13

昼休憩に『灯台へ』を終える。特に第三部は、独身のうちに読んでおきたかった、とすこし感じた。体質としてリリーの視座に共鳴するのだけど、結婚してからどうしても独身者の感覚に対する解像度はどうしたって低くなってしまったように思う。孤独よりも、関係の機微に敏感になったということだろうか(言うまでもないが、これはラムジー夫人のような「みんな結婚するべきだわ!」という雑な一般化ではなく、僕の場合はこうだ、というだけの話だ)。というよりも、リリーのように、ラムジー夫人の孤独に対して盲目であれないということかもしれない。自分一人で自分と向き合うようにいることで感じる孤独と、関係のただなかで一人のうちに生じる孤独は、質が全く異なるはずだった。

しかし、読んでいていちばん思ったのは僕の家での振る舞いはほとんどラムジーそのものじゃないかということで、それはあまりいいことではない。自らの横暴さに自覚的であるだけでは、自体は何も好転していない。身勝手さを認めつつも、他者とうまくやっていく。いつまでも難しい課題だが、できないことではない。特に奥さんのような理知的でチャーミングな人とであれば。毎日毎日新鮮に、もっとこの人と気持ちよくいい感じに暮らしていきたいな、もっとできるはず、と思う。気遣い。

 

仕事終え、エムケ。第一部では、見つめケアし思いやるべき「我々」と、無視したり軽んじたり傷つけてもいい「他者」と分かつような個人的な感情──「恋」「希望」「懸念」──のありかたや、その生起のメカニズム、そうした感情が政治的妥当性を持っているかのような錯覚の原因を探った。続く第二部は、第一部で見たような「他者」との間に線を引くような感情の基盤となっているイデオロギー、包括すべき「我々」と排斥すべき「他者」との区別を根拠づけるような価値観の正体を明らかにする。その価値観は「均一」「自然」「純粋」というものへの志向性として整理される。

個人的で不可侵なものだとされる負の情動から、それを基礎づけ増長させる価値観へと論を進めたのち、三部で示される憎しみの成立要件を向かさせるための方策は、不純なものを称揚することだった。

 

なにより必要なのは、不純で多彩なものを支持することである。なぜなら、まさにそれこそが、憎む者、純粋で一義的なものを偏愛するファナティストをもっとも戸惑わせるからだ。必要なのは、自由思想に基づく疑念と皮肉の文化だ。それこそが、ファナティストや人種差別的教条主義者が最も嫌うものだからだ。不純なものへの賛歌は、単なる机上の空論以上のものでなければならない。多彩なヨーロッパ社会を主張するのみならず、多彩なものを包括する共存社会を実現するための政治的、経済的、文化的投資が現実に行われねばならない。

だが、複数性に価値があると見なされるべきなのはなぜだろうか。それでは、ひとつの教義を別の教義で置き換えるだけではないか、という疑問があるかもしれない。宗教や文化が多彩になれば自身の信条や行為が圧迫されると恐れる者にとって、複数性はどんな意味を持つのだろうか。

ハンナ・アーレントの『活動的生』には次のような言葉がある。「我々が複数性のなかに存在する限り──すなわち、我々がこの世界で生き、動き、活動する限り──意味があるのは、我々が互いに(そして我々自身とも)話す内容、そして、話すことにおいて意味を生むことからのみだ」。まず、ハンナ・アーレントにとって、複数性とは避けて通ることのできない現実だったことに注目したい。たったひとりで孤立して生きる人間などいない。我々はこの世界に大人数で、すなわち複数で生きている。そして、現代社会における複数性とは、既存の規範の数だけを増やし、互いに似たり寄ったりの多くの規範を作り出すことではない。「人間の条件」および人間の行為は、アーレントにとって以下のような複数性を持つものであった。「皆が同じ人間ではあっても、奇妙なことに、誰ひとりとして、過去、現在、未来の別の誰かと同じではない」。この描写は、現在流布している自己アイデンティティと他者との差異という思考に対するエレガントな反論となっている。ここでより重要視されているのは、誰もが人間という普遍的「我々」に属すと同時に、かけがえのない個人として独自性を持っていることである。ここで語られる複数性とは、硬直した「我々」、すなわち否応なく均一化されていく集団のことではない。ハンナ・アーレントの思想における複数性とは、それぞれが独自である個々の多様性から成るものである。誰もが誰に似ているが、誰も誰かと同じではない──それこそが複数性の「奇妙」で魅力的な条件であり、可能性なのだ。個々の人間からその独自性を奪うことになる規範の押し付けはなんであれ、こういった複数性の概念に反するものだ。

カロリン・エムケ『憎しみに抗って』浅井量子訳(みすず書房) p.166-167

 

これはとてもわかるなあ、というか、無理やり自分の生活に引きつけていくと、生活においてダサさを許容していくことは、「他者」に対するおおらかさを育む。僕は幼少期から「イケてるグループ」が苦手だった。グループ内で定められた美意識にそぐわないダサさを許容しない狭量さを感じ取っていたからだと思う。多少のアホ毛や鼻毛は見逃して欲しかった。

僕の奥さんは自分の好む音楽のセンスが悪いとしばしば自己卑下するけども、いまは平気な顔で自分の好きな音楽をスピーカーで流す。僕はそれが嬉しい。ダサいというか、僕の好みではないな、とはたまに思う。それでも、奥さんが奥さんの好きなものを、僕の好みなんか関係なく、のびのびと楽しめているのが嬉しい。それに、だからこそ僕も、食器を洗うあいだガルパンのキャラソングとかを堂々とかけることができる。

純粋で一義的な美意識を諦めること。ガルパンもエムケもユニクロも5lack もFF8もラブひなプルーストもキティさんもなんでも雑多に楽しむこと。奥さんを性的な目で見ること、理知的な態度に敬意を払うこと、片付けができないズボラさに呆れること、チャーミングなふるまいを慈しむこと、他人に対するガサツさをこっそり見下して溜飲を下げること、感情的にならずに公正であろうとするやさしさにはっとすること、それら全部が僕が奥さんが好きだということだ。純粋な「好き」なんてない。

完璧であることよりも、なにかしら混じったり、損なったりしちゃう不純さをそのまま愛おしむことが、生活をごきげんにやっていたり、「他者」をちゃんと人間扱いするためには肝心なのかもしれない。いい加減さ。無精で伸びたままの髭面で、伸び切った前髪を同居人から借りパクした黄色いリボンのついたかわいい髪留めでまとめながら、僕は今これを書いている。

 

さらにエムケは、憎しみを向けられてしまった人たちは、憎しみに抗うためだけでなく、その人らしく幸せになることが必要だと書く。不当に憎まれていることと関係なく、自分なりの幸せを享受することを肯定することが大事だと書かれる。憎しみに対して異を唱えるために、非現実的なほど清廉潔白であったり、わかりやすく不幸である必要なんてない、ということだと僕は読んだ。どんなに厳しい状況や、悲しみの中でも、ふと笑顔がほころぶ瞬間というのはある。それが生活というものだし、憎しみに抗う者は笑ったり、ふざけたり、楽しんだりしてはいけないなんていうのはナンセンスだ。虐げられていることに抗議する者は、その抵抗の只中にあっても、笑うし、ふざけるし、楽しむ。そんなの当たり前のことだ。でもわざわざ言わないといけないような気分になることじたいが、僕は我慢ならない。

日々笑い、ふざけ、楽しむ僕もまた、人間が不当に扱われていることに対して声を上げる正当性を持つということだ。当事者でなければ声すら上げられない、というのは、なんかちがうと思う。いまの制度や風土が、ある個人を不幸な状況に追い込んでいるという事実に、恥じ入り、憤り、是正するよう行動することは、お節介でも、越権行為でもなんでもない。当たり前のことだ。人間が人間扱いされていないことに異議を唱えることを、人間扱いされていない当事者にだけ求めるのは、間違っている。

GEZANの「DNA」を聴こう。僕らは幸せになってもいい。

 

 

 

2020.05.12

朝起きるとべらぼうに調子が悪く、何度も寝込む。その割にまじめに働いて、あいまにウルフ。ある人物に対する印象の移ろい、その描き方が非常に巧い。プルーストのように何ページもかけて移ろいを描くのでなく、数行で端的に流動的な印象を描き切ってしまう。すごい。一晩のうちに十年近い時が流れる。

 

(…)エリボンによれば、狂信や人種差別に特に走りやすいのは、否定的な体験を通して自己を形成する集団や環境であるという。サルトルはある種の集団を「集列」と名付け、それらは制約や障害が多い環境に受け身で無反省に適応していく過程を通して自己形成すると述べる。すなわち、こういった「集列」をつなぐのは、社会の現実に対する無力感なのだ──なんらかの課題や理想に自覚的、積極的に自己投影することではなく。

エンリケ・エムケ『憎しみに抗って』浅井量子訳(みすず書房)p.40

 

トランスジェンダーがほかの人間と同じ社会的認知を求める理由を説明せねばならないのは、トランスジェンダー本人たちではない。トランスジェンダーにも他の人間と同じ主体的権利、同じ法の保護、公共の場所に立ち入る同じ権利があるのだと説明せねばならないのは、本人たちではない。自身の生き方を正当化せねばならないのも、なぜトランスジェンダーにも個人の権利と自由があるのかを説明せねばならないのも、本人たちではない。説明せねばならないのは、彼らから権利を奪おうとする者たちのほうだ。

(…)社会がトランスジェンダーに自由に生きる権利を与えたからといって、誰もなにかを失うことはない。誰からもなにかが奪われることはない。誰も自分を変える必要はない。どんな人も家族も、自身の思う男らしさ女らしさを否定されることはない。ただ、トランスジェンダーにも、健康で自由な人間として、ほかのあらゆる人間と同じ主体的権利と、国家からの保護を認めるべきだというだけのことだ。そうしたからといって、誰の権利も侵害はされないし、誰もないがしろにされることはない。むしろ、皆が自由で平等な人間としてともに生きる余裕が生まれることになるだろう。それこそが、いま我々がしなければならない最小限のことだ。トランスジェンダーに個人としての自由を認める仕事が、トランス ジェンダー本人に押し付けられてはならない。迫害され、ないがしろにされる本人が、自身の自由と権利のために闘わねばならない社会であってはならない。皆が同じ自由と権利を持てるようにすることは、我々全員の仕事なのだ。

同上 p.143-144

 

寝るまでエムケ。心身ともに弱る、この状況にも、暑さにも、そういう感じで、一日体調が悪かったのだけど、エムケを読んでいるといちいちグッとくるようで、助かった。行為者でなく行為を追及すること。その行為に至った理路を分析すること。そうしてその行為の正当性がないことを明らかにすること。ナマの情動がそれ自体で的確な論点たりうるなんてことはないとはっきり言い切ること。

他者に対して不愉快なものを感じとるような情動は、熟慮を経て、公での議論に耐えうるだけのフィルターを通して初めて表明に値するということ。そのような社会の成熟を望むこと。個人の自由を尊重するというのは、個人の拙速な情動の表明を保障するものではない、そうではなく、あらゆる個人が、その人らしくのびのびとあれるようにするということだろう。

 

他者と自分との間に線を引く「素直な」感情というのは、手放しに肯定されていいものじゃない。その「素直さ」は、自らを規定する構造に対してあまりに盲目であるし、自らの感情に対してあまりに解像度が低い。そんなことを考えた。

 

 

 

2020.05.11

一か月以上ぶりの通勤。『灯台へ』を読み始めた。電車は嫌いだが電車が一番本を読める。嫌いすぎて電車にいるという現実をなるべく忘れていたいからだと思う。状況から目をそらすために、ほかのことに没頭していたい。そういう特に褒められたものでもない必要が、いい効果を導き出すことだってある。

 

Twitterでは「#検察庁法改正案に抗議します」のことしか考えられないことになっていて、この件について僕は、明らかに違法な法解釈の正当性を後出しじゃんけんのように成立させようとする、そういうルールの重要性を軽視するような行いをほかならぬルールを制定する人たちがやらかしていることに何より異議を唱えたいというスタンスでいる。

ここにきて賢くて物分かりのいい人たちの「冷静な」クソバイスが目立ってきてたまらなくなったため、今日はついつい連投を繰り返した。「素人は黙っておけ」という抑圧に対する僕なりの応答。

 

「あいつらは現場を知らない」という専門知の軽視と、「偉い人だから偉い」みたいな生徒根性とが手を組んで、追及の矛先を、有害な為政者たちでなく、知識や技術の不足を自覚しつつも実践してみる誠実な素人たちへと向けるの、毎回ゲンナリする。

生徒根性とは、ただ声が大きいだけの素人を「先生」として、その人のいうことをきいていればいい、「生徒」である自分たちは正解を与えられる側であって作る側でも問い直す側でもない、みんなだまっていうことをきいていれば間違いないのにわざわざ無知を晒すのは愚か。そういう態度のことです。

自身の視座を特権化して人を見下すことで満たされるプライドも、「先生」に褒められそうな言動によって得られる安心感も、はっきりと有害なので捨て置いたほうがいい。どうせみんな何かについて素人なのだから、「無様」を晒して不安のなかやってみればいい。それは決して無様なんかではない。

素人が無責任に間違えないでどうするんだ、と思う。素人の違和感に納得のいく論理的説明がなされないことがまず不正だ。「無責任かも」とか「間違ってるかも」とか、思慮深い素人たちが沈黙しているうちに、責任感も思慮深さも欠如した人たちがのびのびとやらかす。

そういうの、もううんざりだ。

無知で浅はかだから感情的になっているんじゃなくて、あまりに酷い不合理や論理の破綻に憤っているんだというのが、簡単に見えにくくなってしまうから政治の話は難しいんだと思う。論理というのは、「こうとしか考えられない」を一つ一つ積み重ねていくものだから、まったく難しいものではない。一から十まではよく理解できないことでも、うまく言語化できなかったとしても、論理が破綻していることは素人にだってわかるものなのだ。論理というのは、そういうオープンなものだ。かなり多くの人がちゃんと使えてる。おかしいと思ったら、それはちゃんと論理的思考が働いてるから堂々とおかしいと言っていい。

 

Twitter では以上のようなことを書いた。140字の制限があるからこそ面倒な言語化を試みることができる。日記のために改めてやり直そうと思ったら面倒くさくなってしまったので短文を強制される効能を思い知った。

 

せっかく一か月以上ぶりに居住区の外に出たので、職場の近くの大型書店に駆け込む。大型書店は僕は深呼吸のためでなく目的外のために行くので、目星をつけていたものだけを最短距離で買う。岸波さんが紹介していた詩集、友人が言及していたみすず、そして文庫のつづ井さん。

 

夕方には帰宅して引き続き業務。終え、『憎しみに抗って』の序文を読む。すでにすばらしい。憎しみは常に垂直方向に働く。上から下に、下から上に。僕もうっかりすると為政者を憎みそうにもなるが、踏ん張って、いやいや論理が破綻してますよね、という態度に踏みとどまりたい。できているかな。僕はとにかく理屈の通らないバカが嫌いなのだ。早速できてないな。

 

(…)もし数年前に、私たちのこの社会で再び人がこんなふうに話すときが来ると想像できるか、と訊かれていたら、ありえないと答えただろう。公共の場での議論がこんなふうに野蛮になるとは、こんなふうに際限なしに人間に対する誹謗中傷がまかり通るようになるとは、私には想像もつかなかった。人間同士の会話とはどうあるべきかというこれまでの一般的な常識が、ひっくり返されたかのようにさえ見える。まるで、人間同士の付き合い方の基準が、まったくの正反対になってしまった──つまり、他者を尊重することを単純かつ当然の礼儀作法だと考える者のほうが、自分を恥じねばならない──かのようだ。そして、他者を尊重することを拒絶し、それどころか、できる限り大声で誹謗や偏見を叫びたてる者こそが、自分を誇らしく思っているように見える。
だが私は、なんの制約もなく人を怒鳴りつけ、侮辱し、傷つけることが許されるのを、文明の発展の結果だとは思わない。自身の卑少な内面を外部へと投影することが許されるのを、進歩だとは思わない。最近ではそういうふうに自身のルサンチマンを外へと露出することが、公的な、それどころか政治的な重要性をさえ持つとされるようになっているが、多くの人たちと同じように私もまた、そんな風潮になじみたいとは思わない。憎しみをなんのためらいもなく表現したいという新たな欲求が、当然のものになるのを見たくはない。この国でも、ヨーロッパでも、それ以外の場所でも。
カロリン・エムケ『憎しみに抗って』浅井量子訳(みすず書房)p.13