2020.01.20

土曜日に乱した就寝のリズムのツケがこうして月曜日に来る。起床五分で家を出る羽目になる。眠くて仕方がない。食欲もなくて、というより今朝も弁当を持ってきそびれたのでお昼に金がかかるというのが煩く、毎日律儀にお腹が空いてご飯を食べなきゃいけないというのが面倒くさくてたまらないのだが、昨晩奥さんがお土産に買ってきてくれたクリームパンをおいしく食べながら歩くとさっそくやたら腹が減り、朝から難儀だった。


面倒だな煩わしいなと思っているからこそランチは納得のいくものにしたく、しかし何が食べたいのかわからないまま歩くうち肉の気持ちになってきて、知らない汚いとんかつ屋に入って、知らない汚いとんかつ屋はこういうとんかつを出すよなというお味で満足したが、脂身に睡眠不足で具合が悪くなった。午後はずっと手足がポカポカとのぼせていて、その熱はすぐさま頭にも届いた。もういっそこのままデスクに突っ伏して寝たい、いや、家のマットレスと枕にこだわり過ぎてどこでも構わず寝れるような体ではなくなってしまって久しい。ちゃんと家に帰って寝たい。そういえばここ数週間お腹の調子がよくない。揚げ物なんて食べないほうがよかったかもしれない。


昨日の日記を書いていて、僕は人のことをなかなか名前で呼びかけないくせに、書こうとすると固有名でしか書きようがない気がしてくることがわかる。文章の上ではもう誰でもざっくり「友だち」と括ってしまいがちなのだけど、じっさいは人間関係に何かしらのラベルを付けるというのがどうにも苦手で、僕にとって具体的な制度や帰属に紐づいていないぶん多義的でいいかげんな「友だち」という語が使い勝手がいいというだけで、本当はそれぞれをそれぞれの人としてだけ考えている。奥さんも冗談として「奥さん」を呼称としてからそのままほとんど固有名のように使っているけれど、ほとんど「友だち」だと思っているし、一度しか話したことのない感じのいい人も「友だち」と書くだろう。こうして一応公開している日記ではなるべく具体的な誰かの名前や属性がわからないように書きたくて、だから気安くて楽しい集まりほど分かりにくい文章になる。


近松物語』を久しぶりに観たから『誰のために法は生まれた』をいよいよ読みたくなってきたが、『近松物語』をフックに論を展開する人文書を僕はすでに読んだことがある気がしていて、しかし何だったか思い出せない。それこそいつかどこかで立ち読みをした『誰のために法は生まれた』が強烈に印象に残っているのだろうか。どうだろう。リュックには今日も『都市を生きぬくための狡知』が入っていて、しかし帰りの電車で開くまで、眠いばかりで読むどころではなかった。それでも帰りは読んで、やっぱり面白い。

 

友だちを信じるということは、彼が絶対に嘘をつかないとか、絶対に裏切らないとか、困ったことがあれば、絶対に助けてくれるはずだと信じることではない。そういう「絶対」というのは友だちに一方的に期待していることであり、彼を信じているということではない。友だちを信じるということは、彼は困ったらこうするというのを他の人よりも自分が理解しているということだ。たとえば、ロバーは遊ぶカネが欲しいときに、サヤカから盗みを働かないけれど、かわりに調子のよい嘘をついてカネをせびる。君は「ロバーがまた嘘を言っている」と気づきながらもロバーの懇願に負け、「本当にもう、ロバーはどうしようもないやつだ」とぶつぶつ文句を言いながらロバーにカネをあげる。そしてオレたちが「本当にもう、サヤカはどうしようもないやつだ」と文句を言いながら、ロバーからカネを取りあげる。そういうふうに、あいつならこうするに違いないと知りながら、気づかないふりをしたり、騙されてあげたり、怒ってみたりしながら、うまくまわっているのがオレたち〔マチンガのあいだ〕の友情だ。

(ブクワ、二八歳男性、二〇〇五年九月三日)

小川さやか『都市を生きぬくための狡知 タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社) p.183-184

 

オレたちには、親友 (besti)はひとりもいない。親友はやばいんだ。サヤカはオレたちがいつもムシカジ(ashikai)とかムセーラ(msela)とかカマンダ(kamanda)という言葉で、友だち、友だちって言いあっているように思うかもしれないけれど、彼らは親友じゃないし、親友になろうと言っているわけじゃないんだ。でも嘘を言っているわけじゃない。そう呼びあうことは大切だ。だけど、とにかく親友になっちゃだめなんだ。そうじゃなくて、仲間って感じで認めあうんだ。そうやって、赦しあうことがオレたちのやり方なんだ。そのバランスがわかるようになるってことが、ムジャンジャになったってことさ。

(ブクワ、二七歳男性、二〇〇四年、「ブクワの一番の親友はセレマーニなのでしょう」と尋ねたときの返答)


ウジャンジャという狡知は、互いを道具的に操作可能な対象として扱うような権力関係を拒むと同時に、互いを道徳的な規範に従わせるような関係も拒む。小売商は、ウジャンジャを駆使して、困難や不満を中間卸売商に訴え、「仲間」としての共感にもとづいた値下げや生活補助を引き出す。中間卸売商はウジャンジャを駆使して、小売商に「仲間」としてこちらの事情に気づくことを求め、ときには売りにくい古着を販売させる。それは互いがたんなるビジネスライクな関係のように抽象化したり制度化したりすることの困難な関係、すなわち個別的で感情的で身体的な関係であることを求めることにもほかならない。しかし同時に、小売商も中間卸売商も、ウジャンジャを駆使して、ときとして互いの期待に気づかないふりをしたり、あえて期待を裏切ったりしながら、「われわれは、ビジネス以外の領域でも支援しあうような関係ではない、それぞれ自立、独立した対等な仲間である」ことを求める。

同上 p.186-187