2020.01.17

今朝は奥さんと一緒の電車で出勤。手を繋いで駅まで歩いていると今日はお休みでこれからデートなのだと脳が騙される。推しの日記が更新されてない、と口を尖らす読者にへらへらと応対しつつ、さいきん本の話をしないけど確かに日記に書いているともう話すことなくなるというか書くと書いたこと忘れるよねえ、というようなことを言っていて、確かにそうなんだよねえ、と話していた。書くのも喋るのも思考や感情の外在化で、外在化したものはもう自分の内に持っていないので覚えている必要がない。僕は自分の話したことや書いたことを驚くほど忘れる、だから何度も同じようなことを、これは発見なのでは! と興奮して書いたりして、奥さんにはまた同じようなこと言ってる、と指摘される。でもそのときどきで書くことや喋ることに駆り立てる興奮というのは一回きりのもので、奥さんも嬉しかったことを文章にしたら、それからその嬉しさを熱っぽく語ることができなくなってしまった、と話した。熱を帯びた語りは、一回きりなのかもしれない。一度外に出してしまえば、だんだんと冷めていく。日記はちゃちゃっとその場で書いて出すので、出来立てホヤホヤな感じはあるかもしれない。いつか読み返すときもまだ温かいといい日記書いたなと思える。


朝ご飯に昨日買って帰ったミスドを食べたのだけどなぜか勤務中いつも以上にお腹が空いて仕方がなかった。今日からはマチンガ。

 

(…)あるいは、つぎのように問うこともできるかもしれない。従来の研究で描かれてきたマチンガには、状況や場に応じて戦略的に実践をおこなうエージェントというよりも、じつは「目の前の窮地をとりあえず切り抜けよう」「目の前の相手に何としても対応しよう」と、突発的で脱文脈的、即興的、「非意図的」な行為を日常的に頻繁におこない、その行為の「失敗例」の積み重なった結果としてジレンマや葛藤にはまっているようにみえたり、「成功例」の観察が積み重なった結果として状況や場面を戦略的に使い分けたり、抵抗しているようにみえた姿も含まれていたのではないだろうか。

たとえば、先に「あいだ」の人びとを描いた近藤は、呪術と偶然化の関係を説いた別の論考において、(一) 未知なる他者との「遭遇性」、(二)そこでの「交渉性」、(三)複数の他者のあいだを渡り歩く「あいだ性」によって特徴づけられる都市の文化社会状況を「フラックス flux」と名づけ、失敗を繰り返す零細企業家が「日常を偶然化」して理解することで、あらゆる機会に対して果敢に賭けると同時に、「従来の手段や関係性を深く反省することなく、新たな手段や人に逃げることで対処する」[近藤 2009: 160]という、「賭け逃げ」の姿勢を内在化させていることを指摘している。また、ガーナ女性の再生産活動を調査したジョンソン=ハンクスは、「常識的に起こる必然性のないことが今起きていると自覚することは、未来もまた何が起きるかわからないが、同時に何でも起こりうるものとして立ち現れる」、ゆえに「偶然性に未来の可能性を重ねることができ、かくして……現実とはありえる未来につなぎとめられた、ありえない現実として問題化されている」[近藤 2009: 161]という近藤とほぼ同じ認識を共有している。彼女は、ガーナ女性が結婚や出産についての計画を「それは未来が決定する」という表現を用いて語ることに注目し、不確実性が常態化したアフリカ諸都市においては、人びとは筋道だった未来を企図することに慎重になりながら、いま可能な行為には何にでも大胆に賭ける、「思慮深き機会主義」の姿勢をもつことを強調している [Johnson-Hanks 2005]。

小川さやか『都市を生きぬくための狡知 タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社) p.15


読み始めてすぐ、年末からずっと積んでたのをいきなり読む気になったのは『パラサイト』からの気分だったな、と気がつく。息子から父への言葉は決まって敬語であることに象徴されるように、あの映画において従来的な家族像みたいなものの束縛は良くも悪くも非常に強く、そうした束縛への盲目が「目の前の窮地をとりあえず切り抜けよう」「目の前の相手に何としても対応しよう」というその日暮らしの態度を際立たせてもいた。家族も資本主義と同じく、フィクションであり完璧ではない構造であり、トリックスター的にやりくりしていく現場でありうる。


腕時計の電池が切れてしまったようで、しかし去年も交換してなかったっけ。