2020.01.18

今朝はいきなり冷え込んで、雨がつらかった。指先どころか手の感覚がない。年々寒さがこたえるようになってきている。暖かさのありがたみが身に染みる。セーターを買い足すか悩む。悩んでいるうちにも寒さのピークは過ぎていつかは暖かくなっていくだろうし、しかしそんなこと言っていたらいつかは人も死ぬしすべてが何でもよくなるが何でもよくはない。昼頃には霙っぽくなっていて、もしかしたら雪でもあったかもしれない。


昨晩Twitter で勢いで声をかけて、今夜『パラサイト』の話を肴に酒を飲む集まりが形成されつつあった。飲むエリアが決まりかけたころに別の提案があり、というところで昼休憩が終わってしまったので決着はほかの方々にお任せすることにするも、仕事中なんとなく開催場所の選定について頭のどこかで考えてしまうらしく、メモリが食われて動作が遅れた。


『パラサイト』のことを振り返りつつ、仕事の何かの拍子に次のようなことを考えていた。おのおのの世界の常識を疑うこともせずに他方に押し付けようとすること。それは何も強者とされる側にだけありうる特権の行使ではないよな、と思う。特権があるとするならば、その押し付けが押し付けとも思われず受容されてしまう可能性の多寡にこそある。だからこそ、相手の常識を押し付けられてるな、と感じるとき、それは相手の狭量さや身勝手さよりもまずは自分が特権的な位置にいるのではないかと疑ってみるべきかもしれない。


小学生のころから三十手前のいままでずっと、年の割に老成していると言われ続けてきて、そのたびに青臭い苛立ちがないとも言えない。それはあなたが未熟に過ぎるだけなのでは? この苛立ちに気がつくたびに、自分の自己中心性というか、結局自分を基準にしてしかものごとを判断できないんだよなあと思い知る。価値判断の基準をすべて自分の外に明け渡してしまうのもダメだと思うが、まったく開かずにいるのもまたダメだろう。自分は自分の責任を果たしている、という自負は自己肯定感の基礎かもしれないが、この「責任」というのを自発的なものとしてでなく、どこか自分の外に根拠のあるものとして思い描いた途端にむしろ自己肯定感を毀損する危険ばかりがかさむように感じている。マチンガの矜持、身一つで生きぬく狡知を誇ることは、『自己責任の時代』で素描された肯定的な責任みたいなものとどこかで通じるような気がしている。ここまでの文章がふわふわしていることからもわかるように、明晰な文章に落とし込めるほど咀嚼しきれていないのだけど。


今日は飲んで帰るだろうから帰っても『2666』は開かないだろう。『2666』は明日には読み終えるだろうというか、昨晩の時点でもう10頁位を残すくらいまで読んでしまったと思うので次開くとき、それがボラーニョの終わりなのだけど、いつものように付箋も張らなければ折り目もつけずノートも取らずに読んでいるので、読書会までの一週間で適当に読み返しつつ、簡単なノートくらいは作ろうかと考えている。