2020.02.20

午前中に届く予定の三刷を待ちながら、掃除と洗濯と運動と亀の水槽の水換えを行う予定があんがい早くに届いたので開封と検品と段ボールをつぶすのが掃除と洗濯と運動と亀を洗うのが並行して行われ、さらには軽食の支度と摂取もなされた。三個口で届いた、二、三冊単位でビニルで結束された本を整理して大きな段ボールに移し替えていると、札束を扱っているような感覚になる。比喩ではなく、商品だからというのでもなく、単純にサイズ感が似ている、それで触感が錯覚するらしい。勢いづいて納品分をトートに入れて家を出るとカメラを忘れたことに気がつき戻り、出、wifi を忘れたことに気がつき戻り、出、財布を忘れたことに気がつき戻り、出。多動気味だった。


道中はTitle に似合いそうな本、と久しぶりに『庭とエスキース』を読む。


荻窪。想定していた店に到着する時間に駅に着いて、そこから歩くので20分くらいの遅刻。さっそく辻山さんにこんにちはして納品。いつも先に棚にふらふら吸い寄せられて、こんもりと買う本を携えてレジに行ってしまうのだけど、これだとじっくり店内を見れないことにようやく気がついた。それでまずは納品を済ませ、それからじっくり店内を見る。『本屋、はじめました』を読んだあとだと、棚の内容だけでなく、什器や梁、導線などにも目がいって、ますます楽しい。棚だけでなく、空間全体と話し合うような感覚。名古屋での暗い十代の、息をつける数少ない居場所の一つだったリブロでも、もしかしたら辻山さんの棚に支えられていたのかもしれない。そんなお話をするつもりが、店を何周もして、財布の中身めいっぱいで買える量まで本を厳選しているうちに、すっかり話し尽くした気になってしそびれてしまった。行くたびに、棚を見るだけで話し尽くした気になって帰ってしまうの、それこそ他人が何より怖かった十代の、本との遅いコミュニケーションだけが安心して取り結べる人間関係だった頃の感覚がなんとなく呼び覚まされるからなのかもしれない。本は遅くていい。そう思って気になっている新刊ではなく、いつか出会いそびれた本と出会い直すように手に取って、悩み、今すぐには読まなそうなものから選んでいった。すぐには読まないかもしれないが、自分の棚にあってほしいものから。


帰り道に『庭とエスキース』読了。帰って前回の納品時に買った写真集と同梱の冊子「もうひとつの庭とエスキース」を眺め、読む。手触りと視覚的喜びに満ちた文字たちで、光を見るような読書だった。

Title ではもともと『ナウシカ考』を買うつもりだったのだけど、パラパラめくってみるとあらすじの紹介というか確認にかなりのボリュームを割いているように見え、不遜にもこれなら自分で読んで読み解ける以上のことはあんまり多くなさそうだな、と思われたため買われなかったのだけどそれでもナウシカの気分だったらしく残っていた七巻を読み終える。いま読むと一層アクチュアルな物語。きれいごとだけを肯定しても欺瞞でしかない。汚かったり嫌な部分も含めて人間なのだという宮崎駿の冷徹な人間観が僕は好きだ。それで、すぐには読まなそうだからこそ今日買われた益田ミリの『どうしても嫌いな人』が結局手に取られ、嫌いという感情、逃げること、そういうきれいごとでは肯定しきれないことを丁寧に丁寧に掬い取ってそのまま認めていくような作品で、とてもよかった。横から覗いてきた奥さんが、絵柄のわりに内容がしっかりつらい、というようなことを言ったが、そのとおりで全く楽しくない現実を、誇張も脱色もせずにただ地味でしんどいままに描いているのがすごい。やっぱりナウシカと通じるものがあって、ずるかったり利己的だったりするのをないことにしない、僕は今そうした素直さというか格好つけなさみたいなことをかなり重要だと考えている。きれいじゃなくても、都合が悪くても、迷惑でも、そのままであることを否定することはできない。


夕食前に同居人がもらってきたという絵本を読ませてもらって、とてもよかった。『ねむたいひとたち』。Twitter で嬉しい感想をいただき続けていて、さいきんTwitterエゴサーチしかしなくて、あとは今後の日々で読むかもしれない本を知るのに有用な情報がありそうなアカウントを直接見に行くようにしているのでタイムラインは見ない。それでだいぶ気持ちは楽だが、それはネガティブなというか嫌な思いをしなくて済んでいるというだけで、毎日ポジティブなストレスは受け続けている。喜びや嬉しさもストレスだから、あまり浴びすぎないように気をつけたいが、喜びだし嬉しさだからどんどん欲しい。