2020.02.22

朝起きると奥さんはまだすやすや眠っているようで、起こさないように布団の中で静かに「読書日記」を読む。たくさん文字があるから、毎週三〇分だか四〇分はかかる。廊下からは同居人の話し声が聞こえる。独り言ではまさかないだろう。電話だろうか。でもわざわざ廊下で? 読み終えそう、というころ、奥さんの笑い声が聞こえる。あれ、と思って隣の布団を見ると奥さんはいない。すやすや眠っているどころかそもそもそこにはいない。ぐっすり寝ていたのは僕の方だった。それで起床後むだに、むだにでもないが、静かに読書の時間を過ごしていた。

 

支度して、きょうは『プルーストを読む生活1』を二五冊持ってのお出かけで、読書トートと紙袋に分けて家を出る。まずは蔵前へ。HABさんに納品して、奥さんにクレーの日記を見せて、ほら、すっごくきれいな本でしょ、などと話す。今日は荷物も多いから物理的に軽いものを、と文庫本を中心にセレクト。個人書店ででかい本を買わないとなんだか自分で自分のありたい良客像を裏切るような気持ちになる。でもクレーの日記を買うと今日一日の移動が大変だしなあ、と思って、また三月には来たいわけだしその時また悩もうと思われた。

田原町から電車に乗って表参道。前から決めていたようにHAB からのハブモアカレーで、はぶはぶ、という流れだった。表参道で値段も高すぎずしっかり美味しいお店、棚に挿さっている蔵書もいい感じ、ということでランチを食べようとするといつも困るこのエリアで唯一ほっとできるお店で、夫婦揃ってとても好きだった。しかしこの店にくるといつも隣の席のカップルの会話が壊滅的に面白くなさそうである、というジンクスがある。原宿方面への坂を下りながら奥さんが、わたしの自分で嫌だなと思うところを発表します、というので聞く態勢をとると、よそのカップルの会話にうわつまんなって思ってしまう、と言うので、さっきのは面白くなかったね! とはしゃいでしまって、二人して嫌な奴になった。なにより僕は奥さんの話のサビを横取りした形になり、僕はこう言うことをやりがちだ。枕だけ聞いて、その人の語りたい本編部分を食い気味に引き継いでしまう。よくないですよ。

それでgondoa に行って、七周年ということで新作のお披露目などがあり、それや、そして結婚四周年がもうじきあるだとか、色々とそれっぽい理由をつけてお互いにすてきなアクセサリーを買おうぜ、という会だった。たっぷり悩んで、僕は前から惚れ込んでいたTORQUATA の甲虫リング、奥さんはELCAMI の新作をカスタマイズしてもらうことにして──番いの蛇の目の石を好みのものに替えてもらえる──仕上がりは四月とのこと。未来に楽しみがあるのはいいことだ。僕はさっそく嵌めてうきうきだった。

それからまた歩いて渋谷に向かう。はじめて新しいPARCO に入る。八階の催事場で竹田さんにこんにちはして、昨晩双子のライオン堂に遊びに行ったらそろそろ追加したいと思ってましたと言ってくださったのでじゃあ直接会場に納品に行きますね、ということでの「本屋さん、あつまる」への直納だった。さっそく並べていただけて嬉しい。奥さんがウェイリー源氏物語の翻訳の販促冊子に反応して、めちゃくちゃに面白そうだった。肩と財布のコンディションを考慮して一巻だけまずは買うことにする。本棚の写真からオススメしてもらうのもお願いして、見事に気になっている本をおすすめされて、流石だった。オススメいただいた中で、まったく知らない本を一冊だけ選んで買った。本のイベントはちょっと食傷気味だったのと、すでに満足してしまったこともあり、ほかのブースを見ることもせずに会場をあとにする。なぜなら見てしまったら買ってしまうからだ。もう買えない。エスカレーターで奥さんがボソッとここまでに買った本の値段があればクレーの日記買えたね、と言って、言わないで、と力なく答えた。PARCO をちょっと冷やかして、気圧はきょうは朝から晩まで急降下で、そろそろ限界だったので明るい廃墟状態だという噂のMODI の、たしかに充実している休憩スペースでひと休みする。Twitterウェイリー源氏物語の翻訳者の方がイベントでの購入を喜んでおり、思わず話しかける。読者として、客として、ここにあなたの仕事によって喜びを得た者がいます、と声を上げることに、年々ためらいがなくなっている。僕のつまらない自意識なんかよりも、作り手に対して受け手の喜びを可視化することのほうがよっぽど重要だった。

せっかくなのでHMV の本屋にも言ってみると海外文学も人文もかなりいい品揃えで、うひゃあすげえいいなあとなったが、もうお金もないし、この規模の本屋だと僕がお金を落とさなくてもみたいな気持ちになってしまうが、タレント目当てなのか暇つぶしなのか、幼くて行儀の悪い客ばかりが目立ち、俺が支えんでどうするという気持ちもあり、いい店と客層と環境とがちぐはぐなのが非常に悲しかった。つくみずが表紙を描いているシオランの新書を見つけて、ずっと探していたけれど僕は新書棚への解像度が低くて見つけられておらず、ふいに面陳されているのに出くわして思わずヒャアと声が出て奥さんに大ウケだった。それでその一冊だけ買うことにした。

 

『A.ウェイリー源氏物語』は販促冊子や役者あとがきを先に読むと、思った以上にプルーストとの縁が深そうで、それはプルーストに喩える批評家の言葉もそうだし、翻訳者の一人の研究対象でもあったり、ウェイリーの訳業が発表されたのがプルーストの没後三年くらいであり、つまりは同時代を生きたもの同士でもあり、というようなもので、これは、まじで「源氏物語を読む生活」が始まるのかもしれない。僕はぶっちゃけ源氏物語について、ホモソーシャルパレスで繰り広げられるヤリチン武勇伝くらいにしか考えていなくて、つまりは正直いちどもよさを分かったことがない。それでも手に取ったのは翻訳、特に詩歌の翻訳において失われてしまうものや意図せず立ち現れてしまうものなどに興味があるからで、誤解や誤読の豊饒さを信頼しているからだった。それで、ホモソきっつい、みたいな偏見を読まないままで強固にしている僕にとって、一世紀近くも前の異国人の色眼鏡を通して読むことは、いったん自分の偏見を無化して読むにはよさそうだったからで実際に読み始めると「第一帖は、どうか寛大な気持ちで読んで頂きたい。作者紫式部はまだ、先人たちの未熟な作品の影響のもと、宮中年代記(クロニクル)と、それまでにあったおとぎ話(フェアリー・テール)が混在したスタイルで書いている。(p.38)」という原注なんかに、いいねえ、何様だよ〜! とはしゃいだりする。『失われた時を求めて』の刊行が続くなか、翻訳され面白がられた源氏物語を読む。それは偏見によってどちらかというと嫌いともいえる作品と、迂回に迂回を重ねたフィルターを通して出会い直してみるという以上にいいものかもしれないと思われてきた。それで桐壺を読み、桐壺だけはやたら読んでいる、さまざまな訳で試してはピンと来ずそれだけでやめてしまう、そういう桐壺で、読むたびにエンペラーが全部悪いやんけ! と思うのだけど、今回もそう思ったのでやはりこれは源氏物語のようだった。ここから先はじつは無知と言っていい。果たして僕は源氏物語を読むことができるのだろうか。とりあえず桐壺で判断するのは間違っているらしい。「第一帖は、どうか寛大な気持ちで読んで頂きたい。」ってウェイリーも言ってるし。