2020.03.15

お気に入りの万年筆でノートに手書きで書いているほうの日記は、プルースト以後読書日記から普段の日記へとなんとなく書く姿勢をシフトしたこちらの日記に吸収されて、どんどん間遠になっていった。思い出した頃にはもう取り返せないかもしれないな、と思うのだけど、開いてみると最大二週間しか空いていなくて、というかきっかり半月ごとに思い出すようになっているようで、そのくらいなら平気で取り返せるようになってきた。もちろん分量は少ない。一二行がいいところ。けれども手首から先運動はいい気持ち。

日々本を読んでいると、読む本によって考えることの質も内容も変わるのだから、昨日の自分と今日の自分では明らかにモードがちがう。二週間も前となるとほとんど他人のように遠い。たった二週間、とも思うが、しかし明らかに二週間は長い。毎回手書きの日記を思い出すたび、とうとう全く手を付けずに来てしまった! とがっかりするのだからすごい。あのころはノルゲで、いまはアナキズムだった。自分の場所がないところに居場所をビルドすること、自治、そういうところに関心があるらしいことは一貫しているが、今年に入ってから珍しく小説ばかり読んでいたような気分があって、いまは思索や実践の手つきを辿りたいようだった。


タイムラインだけでなく、街も明らかに疲弊している。タイムラインだけなら殺伐としているのはいつものことだったが、言葉だけでなく、寒暖差や、電車のなかのややマシになった乗車率にそぐわない余裕のなさによって体にどんどん負荷がかかっていく。こういうときに、ただ流されるでもなく、単純な逆張り精神でイキるのでもなく、自分にとってのいい塩梅を見失わずにいることはとても難しいがかなり大事なことで、まずは自分が相当なダメージを喰らっていることを素直に認めるところからだった。第一に、僕は今とてもぐったりしている。けれども、ぐったりしていたいわけじゃない。誰かのせいにしたいわけでもない。なるべく楽チンでいられる方法を冷静にひとつひとつ点検していくしかないので、重い腰を上げるための何かしらの儀式が必要で、それは例えば『ミッドサマー』を観ること、奥さんと二人で誰かの悪口を楽しく言い合うこと、ゆっくりお風呂に浸かること、本を読むこと、手を繋いで散歩に出かけることなどだった。穏やかであるための工夫はどんどんやってみたほうがいい。


過度な標準化・一般化に抗うこと。土地や個人に結びついた土着の思考を放棄しないこと。酒井隆史とジェームズ・C.スコットが、面白いこと言うおじさんでなく、普通に頼もしい人たちとして伴走してくれるような気持ちになるのは、あまり歓迎できる状況ではないが、しかし実際いつだって頼もしかったのではないか。面白いこと言うのは、頼もしいことだろう。