2020.03.31

電車は相変わらず混んでいるし、職場に着くと何も変わらない雰囲気で、正常性バイアス、と思い浮かぶ。結局大勢の人が国や都ではなく会社につよく帰属しているのだ。自営業者や小規模経営者に対してただ破綻していくのを黙って見ていてくれというような環境で、大勢の生計を支えていかなければならない規模の会社が自分から止まることを決めることはできないのは当たり前だった。それはお金を軸に考えるから当たり前なのであって、生存を軸に考えたとき、まったく当たり前ではない。経済でなく人命をリスクにさらすことをこそ重大だとして判断を下せる組織について、規模の大小関係なしに尊いと思う。

不安を煽るだけ煽ってあとは個々にお任せ、という統治のあり方は、平時においては非常に有効であることが長いあいだ証明され続けてきたけれども、とてもじゃないけど「ふだんどおり」とは言い切れない状況のなかで、不安のキャパオーバーによって、不安による統治の技法のダメさが露呈していくようだった。


仕事中もメールを気にして、原稿を待ち構えていた。落ち着かない。来るのか来ないのか、来てるけど届いてないのか、わくわくそわそわするそれもまた立派なストレスだった。しかし楽しいストレスならそれは悪くない負荷だった。しかし負荷は負荷だった。負荷ってなんだっけ、と検索すると、あれ、負荷って何なんだ? と余計に分からなくなった。


午後になって会社の判断が出る。LINE で楽しみな予定についてどうする? という連絡が回ってくる。いま集まるのは得策ではないよな、というのはわかりつつも、労働では外に出られて、それ以外のことでは出られないというの、おかしいだろ、というムカつきだけを理由に決行したくもなる。こっちは遊ぶ金欲しさに労働なんかに手ェ染めてんだ。しかし憤りだけを根拠に行動するには状況が見えてこなさ過ぎた。過剰な自粛を自己判断でつっぱねるにも確度の高い情報が足りてない。ひとまずは三密は避けておこうというのが理性だった。三密というのは 六大・四曼と並んで空海哲学の中核だった。


家では『大洪水の前に』と『我々は人間なのか?』、寝る前フヅクエもしくはゲンジ、というのがこの数日で、外で読んでいた北村紗衣とクレーが読み終えられた今はレムが再開されたが主に日記本の最後の読み直しを行っていた。自分の日記に励まされるとはな、と思う。日々がいちいちいい感じだ。2巻もこれまたいい本になるだろう。なんでもなくただ楽しく本を読んでいる日々の記録が、こんなにも切実な何かを帯びることになるから、本の遅さというのは面白い。書いていたころには考えもしなかった読まれ方をするだろう。