2020.04.01

年度が改まる。この状況で自分の身辺に変化が多くなくてよかったな、と思う。これで人為的な環境変動まで重なっていたら、すっかり滅入っていたかもしれない。粛々と昨年度からどうにもなっていない仕事に取り組むだけで済むから、昨日までの仕事の嫌さとなんにも変わらない嫌さがあった。嫌だった。


昨晩までに届いた各種原稿を読み、それでとても喜びに満ち満ちた。はやくこれを形にして、届けたい! と思うような、いいものばかりだった。

移動中は日記本の校正、というか、ただ楽しく読み返しているというか。どんどんミスは見つかり、ペンで直接書き込んでいく。反映させて、きれいにしていくのが楽しみ。


奥さんは「会社ごときに私が私を大事にできなくされるの絶対許せない」として一人ストライキで今日は会社を休んだ。とても誠実で格好いい態度だと思う。なんだかんだでそういう自主的な行動ができる余地のある会社を選んで、入社してからもできることをどんどん広げていったというのは、すごいことだ。


僕のいる会社は、そうやって個人が自分を大事にできる余地は、あるようでない。油断するとすぐに個人の自主性を食い物にするので、僕はとにかく静かに密やかにそうした体制に抗っていくことにしている。適当な程度でサボっているということだ。僕はなるべく仕事をしたくないので、なるべくしないで済むことを増やし、それらを徹底的にしないでいる、という仕事の仕方をする。これは、好きでもなんでもなく、その価値観を内面化することもあり得なさそうな会社で働くメリットだと思う。けれども、できることなら好きになりたかったし、価値観を共有しているという確信のもと働くことそれ自体が喜びというような働き方をしたかった気もあるにはある。しかし、やっぱりそういうの、使用者側に都合のいい労働幻想に過ぎないよね、労働はふつうに苦役じゃん、という気持ちのほうがうんと強い。

会社にいながらにして個人の利益を密漁すること。セルトーの書いたような実践の場として、僕は職場を捉えている。仕事をするのは嫌いではないが、使われるのは嫌いだということだった。働くことそれ自体が喜びというような働き方をするのなら、まずは自分で自分を雇うべきだった。そうでない限り、僕はおそらく苦役としてしか働けないだろうな、と思っている。苦役であるならば、なるべく苦しくなくやり過ごしたい。


新年度なので、張り切ってやる気のない文章を書きました。そうでもしないとやる気を出してしまいかねないので。