2020.03.30

女性たちがシェイクスピア・ジュビリー祭に参加した記録からは、祝祭的な楽しみがファンダム形成にとって大きな役割を果たしていることが読み取れる。ジェーン・オースティンのファンダムなどについてしばしば言われることだが、こうしたファンダムのあり方は「ふさわしくない軽薄さ、感傷、フィクションを人生に組み込もうとする決意、保守的なノスタルジア」だとしてしばしば批判される一方で、聖地巡礼や仮装のような活動はファンの想像力を刺激し、楽しみを提供するものとも見なされている。シェイクスピア・ジュビリーについても、上演がなく仮装やパーティばかりのプログラムが「フェスティバルの真面目な目的」にそぐわないという批判がされてきた。しかしながら、シェイクスピアを楽しむというよりはシェイクスピアをだしにして楽しむという受容のしかたを提示した点で、ジュビリー祭は正典化における画期的なイベントであり、参加した人々はきわめて現代的な形でシェイクスピアを受容していたと言える。ジュビリー祭の参加者は、シェイクスピアを楽しむのにそれほど知識を必要とせず、自分が大きな解釈共同体の一部であると感じ、祝祭的な雰囲気の中で楽しい想い出を持ち帰ることができたはずだ。現在のファンコンヴェンションでは、架空の登場人物に扮するコスプレは人気がある活動で (ジェーン・オースティン学会のようなアカデミックな場ですら、仮装イベントが行なわれることがあるほどだ)、とくに女性が積極的に参加している。仮装パーティで参加者が演劇的な架空のアイデンティティをまとうことで、通常とは異なる交流が生まれ、実生活から離れた祝祭的な空間が作り出されることを、デイヴィッド・ギャリックとその協働者たちはよく理解していたのだろう。

北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(白水社) p.218-219


いい本だった。『クラシック音楽とアマチュア』もそうだけれど、ただ受け取るだけと思われがちな観客や読者に焦点を当てる研究は、ただの読者のひとりとして、やっぱり嬉しくなる。好きなものをただ好きでいることの力を、手放さないでいたい。各自の生活を美しくして、 それに執着すること。「SaveOurSpace」に署名する。


昨日から『かえるの校正入門』で気分を高め日記本の校正作業。同時発売予定のZINE の原稿も今月末が締め切りで、ちらほら届きだしている。この時間は待ち遠しい。いつ来るかもわからない手紙を待っているような落ち着かなさがある。一時間に一回、迷惑メールフォルダまでチェックしにいく。


クレーの『造形思考』の下巻を終える。絵は運動であり、描いている時間、見ている時間のなかにしかない。絵に相対する目や手の運動そのものが絵なのだ。そういうことが書かれていて、僕はやっぱり保坂和志を思い出す。


奥さんがZINE の表紙を作る。めちゃくちゃ可愛い。