2020.08.19(1-p.220)

連日暑すぎる。図書館に行くのも億劫で、ちょうど日記を書かなかった三日間、夜の散歩がてら閉館後のブックポストに返却してしまい、読む本がなかった。
きのうの夕方FGO をポチポチやりながら歩いて行って、ようやく本を借りた。それで今朝は読書猿『アイデア大全』。なんか軽めの読み口でかつ重たく取り組むのもいけるやつ、と思ってのこれだった。ほんの三日読んでいないだけでペースがわからなくなる。リングフィットアドベンチャーも半月ほどやらないで済ませたが、そろそろ体力がやばそうなのでしぶしぶ再開した。わざわざこのくそ暑いなか体を動かして汗かくの馬鹿みたいだ。ぜんぶ馬鹿みたいだ。感染リスクを冒してまで出勤するのも馬鹿みたいだし、それはCOVID-19 によって顕在化しただけで、そうでなくてもあったはずの馬鹿らしさだ。エレベーターの「開」ボタンを押して出るのを助けてあげる、という動作に、指でボタンに触れるという恐ろしさが加わっていることに気がついた。気遣い以上の何かが求められてしまうこと。しかし消毒液のあのなんていうんだっけ、押すところ、あれをぷっと押し下げて揉み手をする儀式、あの押すところってめちゃくちゃ多数の人の手指が触れているはずで、なによりもあれに手を触れたくないのだけど皆どう折り合いをつけているんだろう。くそダサい虹のお札をプリントアウトして軒先に貼っておけば安心、みたいなのもそうだし、あんがい呪術というものはいまでも効力が認められているのだなあと思う。
「こんにちは未来」の最新回で、文書と声の話がなされていて、それを聴いてやっぱり今は声なのかもしれないと思う。文字よりも危うさや信用のならなさがある分、スリリングで楽しいというか、まだ乱暴が許される領域のように僕は思っているらしい。ポッドキャストの配信を始めてから、あきらかに文字にすることの面倒くささが増した感じがある。生煮えのものは声に出すほうがいい。文字はモノなので、どうしても他者性を帯びる。録音した声はモノ未満な感じがある。でもどうだろう、アーカイブされてしまったらそれもモノだろうか。
続けてオムラヂ。すべてが既知に還元されてしまうことへの危機感みたいなことが語られていて、わかるーとなった。僕が寅さんを観るのも、安易に既知に還元させずにわからないものをわからないままに適当に放っておく練習なのかもしれなかった。会社員として、こういう場で語られる「就活」や「サラリーマン」観の偏りというか貧しさはやはり感じるもので、このへんも機会があったらお話ししてみたいところ。オルタナティブを選択してきた人は、そもそも本流とされているところをよく知らないままであることなど。可能な限り回避したいストレスは人それぞれなので、彼岸か此岸かという二項対立ではなく、二者のあいだでいい塩梅を探していくことも全然できてしまうはずだし、そういうどっちつかずさを求めている人は多いはずで、だからこそルチャの実践は魅力的なのだと思う。
労働の現場にせよ私生活にせよ、情報処理能力が落ちているのを感じる。ぜんぶ暑さのせいにする。メールだけは何であれ気づいたときに返信するようにしているが、それは後に残しておくとそのまま忘れるのが確実だからだった。既読即返信、もしくは、忘却。そういうことだった。返信をタスクとして残しておいて未来に繰り越すというのがどうもできない。それはいつものことだった。暑さはあんまり関係なかった。
日記の書き方がいい加減になると、生活も荒れるような気がする。ちゃんとしなきゃな、と思うが、ちゃんとしていたことなどあっただろうか。どうにも調子が悪いらしい。
ポッドキャストを始めてからこっち、声の楽チンさを覚えてしまって、こうしてわざわざ何でも文字にすることが非常に面倒くさくなっている。日記的なものは声でいいのではないか。生煮えの考えを文字にするのが日記の楽しさだが、声はそのままで生煮えだ。手間が要らない。文字はどうしてもモノなので、他者性を帯びる。他者を生煮えのまま置くというのは結構手間がかかる。もちろんそうやってわざわざ手間をかけることこそが楽しさなのだけど、楽しさよりも楽チンさに流れてしまいたいときだってある。声は手間がかからないから楽しくもないが、楽チンだ。だから楽しむなんて面倒なことをせず楽チンに済ませてしまいたい。いまがそうだ。そう思いながらたらたら書いている。なんだかんだ文字にしかできないことだってあるのだ。あー面倒くさい。日記がただただ面倒くさくなるのは初めての事態な気がしている。忘れているだけな気もするが、なんだか新鮮だった。文字を置いていく作業が難しいことだという実感をはじめて得た。たしかに文字より声のほうが手っ取り早い気がしてきた。
新しいことを始める、たとえば新しい本を読むとか、食わず嫌いしていた映画を観てみるとか、自分には縁がないと思っていたソシャゲを始めてみるとか、音声配信をやってみるとか、それらは全部ある種の自己破壊だ。現状追認に馴染まず、別のあり方を模索するというのは、なじみ深い自分というものを一度疑ったり、崩したりする必要がどうしてもある。いまこうしてこれまで息をするように行ってきた文字を置くという行為の異常さというか、面倒くささに気がつくというのは、あきらかに最近のとりあえず何でもやってみようという『ポイエティーク』の制作が効いてきた証拠だ。自己変容のただなかで、三号を作るのが面倒になってほったらかしになってしまっているが、個人としては楽しくなってきた。具体的なモノになるには時間がかかるだろう。文字はまだ騙し騙しここまで書けたのだから、そろそろ制作に取り掛かりたい、と嘘でもいいから書いてみる。