2020.11.11(1-p.325)

コツコツと貯めた石60個を一気に砕いてなおネロは来なかった。まちがえた、ネモは来なかった。これは日記だが最近はもうその日にその日を書くということがないのでいっそそれに開き直って翌日に見かけたツイートを引くけれど、友田さんがこう言っていた。

内輪受けが嫌いで、自分が書く文章やトークで絶対にやりたくないのですが、こないだからそもそも内輪受けってなんだろうとずっと考えていて、それは内輪にしかわからない話題のことではなく、他人にわかるように努力していないことなんだと気付いて腑に落ちた。つまり話題ではなく、話し方の問題だ。

http:// https://twitter.com/tomodaton/status/1326576232670978048?s=20

 本の話は僕は他人にわかるように意識せずとも開いていけるがたぶんそれは本というものの読み方が既に他人に開かれるような読み方だからだ。本と同じように僕はFGO が好きだが、こちらは他人にわかるように書くことができないでいる。ほかのソシャゲ狂いの文章を読んでもやはり内輪受けを感じることが多い。これはもしかしたらソシャゲというものがアプリを落としたユーザにだけ届けばいい、内輪に対して依存症的な快楽や射倖心を掻き立てることが大事だ、というような設計だからかもしれず、しかし、本もそう変わらない気もする。それでもやはりソシャゲの方が本よりも他人に開く可能性を感じづらいのは、ソシャゲは内に引き込むもので、本はどうしたって外へ漏れ出てしまうものだというところに正体がありそうだった。なんにせよ、どちらも僕には楽しいが、楽しく語れるのは本のようだった。

 

アーレントの活動・仕事・労働という区分を、人々をどれかのクラスに当てはめようとするゲームの設定だとして読むと見誤る。そうではなく、本来そのように区別できていたものが、渾然一体となっていることをこそ問題とするためにアーレンとはこの区分を持ち出した、というところが面白くて、『アーレントマルクス』は面白すぎてまるで既に読んだことのある本のように染み渡る。『失われたモノを求めて』においては仕事としてのモノの制作を取り返そうぜというようなことが書かれていてそれはとてもしくりきたし、僕もそういう気持ちで本などを作っているのだけど、そうした個人の規模での制作とは、工業化されすぎないことで仕事に留まり、労働にならずにすむための工夫なのかもしれないな、と思う。打って出る市場が大きすぎては労働になる。孤独でないと制作はできないが、孤立してしまっては仕事はできず労働になってしまう。孤立した労働に活動的な性格=コミュニケーションが付与されがちな世の中で、活動への通路は、孤独な制作からこそ切り開かれるべきだと僕は考えているようだった。ひらきすぎてはいけないし、自分で引き受けすぎてもいけないのだ。一人ぼっちでモノと接するような、そういう態度をもっと大事にしたいと思う。