2020.03.01

楽しみな予定がどんどん中止になっていく。友人のライブもその一つで、その連絡はLINEで「中止です! 理由はコロコロナッちゃんの進撃です!」となされた。その努めて明るい振る舞いと間抜けな名付けによるささやかな抵抗に、その人らしさを感じて笑顔になった。悔しい時こそ気の抜けたユーモアで受け流す、それは立派なストラグルだと僕は思う。しかめ面は時に不誠実だ。そう思って、ラスト数曲しか聴けなかったけれど、昨日の打首獄門同好会の配信も非常にいいものだった。努めて明るく振る舞うこと、それは確かにある面では抑圧であり、抑圧の隠蔽でもありうるだろう。けれども、人の本性というものがあるとして、それがドロドロと眉間にしわを寄せたものであるという人間観に対しては、僕はちがうんじゃないかなあ、というスタンスでいたい。しかめ面でいたい人を無理やり笑顔にするのは抑圧だが、笑っているお前も心では泣いているはずだ! と迫るのもまた抑圧だ。笑顔を強いるのと同じくらい、なんならそれ以上に、しかめ面を強いる同調圧力が怖い。通勤よりも先に娯楽が自粛に追い込まれる意味が本気でわからない。ほっとけ。

 

この日記にはあまりネガティブなことを書かないというか、書くとしても天候やそれに伴う体調不良についてくらいで、そういう書き方に欺瞞というか、近年の糸井重里的な、社会的強者のトーンポリシングを感じられても仕方がないかもしれないな、と思っている。けれども、無理に不幸や弱さをでっちあげるほうが僕は危険だと思っていて、生活において思っても感じてもいない怒りを過度に自分ごととして言葉にすることは避けておきたいと思っている。こういう時期のTwitter はまじでどうしようもない気持ちにしかならなくて、slack にIFTTT で連携した「プルーストを読む生活」を含んだ投稿について通知が来た時にだけタイムラインに降りていくような使い方でもやっぱり気が滅入るというかこの国はどうしようもないなと思わされる。こういうことになるずっと前からすでに国という虚構に対しては失望や不信しかない。かといってすべてこの手でビルドしていこうというのも、過大な自己責任を引き受け新自由主義を追認することになりかねない。『資本主義リアリズム』を再読したい。まじめに、なるべく怒りや不安に流されないように、静かにぼへぼへと振る舞う人たちへの想像力を枯らしてはいけないな、と思っている。そのぼへぼへに賭けられたものは、もしかしたらすごく大きい。