2020.01.10

朝起きると朝イチで上司から会議請求が入っていたがもう間に合いそうにない時間で、それでもなるべく早く家を出る。内容に納得も反発もなかった、それは安心かと思われもしたけれど、時間が経つにつれ腹が立ってくるようでもあった。言葉にすると何かしらの感想を持たざるを得ないというか、そうか僕はこんな風に感じているのだなと自分でも納得してしまいそうになるけれど、なるべく実態に近い形で表そうとするならばそれは、特に何もないな、というほかない感じだった。

 

退勤後は「会話のない読書会」のため初台へ。『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』を、fuzkue に集った知らない者同士がただ各々黙々と読むというとてもいい催し。いつものカウンターに滝口さんがいらして、あら、と思う。当たり前のような顔をして注文も取りに来てくれるし、サーブもしてくれる。作家のサービスを受けながら、作家の日記を読むというのは妙なくすぐったさがあり、しかしそこにいる作家はあくまで今お店の臨時スタッフで、僕が読みたいのは目の前のこの本だ、というように、作り手よりも作品が優先されるその状況は、なんだかとても健康な感じというか、嬉しさがあった。この嬉しさはなんだったのだろう、具体的な生身の個人よりも、その個人が作ったものを分有していることのほうが欲望されている空間というのが僕はとても嬉しかったようなのだけれど。それはfuzkue という場において、読書という行為がなによりも優先される嬉しさと通じているようで、しかしそれだけでもない気がする。アイオワに集まった作家たちの交流は、個人同士の生身の交流のようでいて、やはりどこか literature を前提としているようで、だからこそ素朴な交歓のひとつひとつがいちいち眩しい。一冊の本を前提として、きっと最後まで知り合わない人たちが集まり、別れていく状況と、なにかしら重ねるところがあったのかもしれない。アイオワを発って日付が置かれなくなる、そのあたりで会の終わりの時間が告げられ、店内の空気がさわさわとしだす。控えめな会話がなされ、お礼やお別れが交わされる。そんななか読み終えて、これはなかなかいい終わり方だな、と思う。作家たちが行程の慌しさに疲れ、大した感慨もなく、すでに済ませたものとして別れを迎えるように、散会の気配にやや集中を乱されながら日記の終わりに辿り着く。他人同士が出会い、友達になり、再開の保証もないまま別れていく三ヶ月が過ぎた。