2020.02.04

『お家賃ですけど』が好きだったなあ、という感覚だけが残っていて内容はさっぱり覚えていなかったので昨日は帰ってから本棚から引き抜いて読みだした。ご飯やRFA やお風呂を挟みつつ、あっという間に七割くらい読んでしまって、軽やかだった。テキストサイト時代の自意識だった。それで今朝読み終えられた。いま読むと二七歳に届かなかった当時の僕に何がそこまで響いたのか、今年二九になる僕はもうわからなくて、『結婚の奴』のほうがしっくりくる。若さゆえの、自意識の拗らせゆえの、人間関係の不器用さ。それはあまり変わっていないのだけど、年とってからのほうがその不器用さを屈託なく受け入れている感じがして、今の僕はそのほうが好きだった。それは僕も歳をとって、ようやく他人と具体的な関係を作っていけるようになったということかもしれない。けれどもしっくり具合の変容は、年齢以上に、時代の気分としか言えないようなもののために感じる。サブカルがまだ活きていたころ。


二十代も後半に入ったころから、周りの三十代があまりに幼稚に見えて生意気にも、青いな、などと思っていた。だからとっくに気持ちは三十代を越していて、二十代以下の気持ちがどんどんわからない。けれども、同世代か否かよりも、同時代感覚を持っているかというのが重要なのだと思う。先の、青いな、も本当は、古いな、だったのかもしれない。まだそんな前時代的な価値観に拘泥しているのか、とでもいうような。どちらにせよ嫌な優越感だ。ともかく、僕の持つ危機感や焦燥感をまったく理解できずいまだに高度成長を志向する子供たちもいれば、僕以上に危機感や焦燥感を持つ年寄りだっている。若さが希望なのではなく、その時代その時代に合わせて感覚をアップデートしていける柔軟さが希望なのだ。僕はまだ、柔らかいままでいられているだろうか。年下と会うときは自分が試されるような気持ちになる。大体において、こんなにも「古い」価値観は根強いのか、と自分よりも固い人たちを前に愕然とするが、そもそもこちらが年長というだけで固い側の人間として扱われもてなされた可能性も高い。年の差を前に思考停止して個々人を見ようとしないのは、お互い様なのかもしれない。見下し合って暮らしている。

僕はすでに若い世代をなるべく邪魔せず、託せるものはめいっぱい託していこうというような発想をするが、しかしほんとうはこんな若くして絶望してはいけないのかもしれない。希望を抱くことは他人任せにして、現実を少しでもマシなものにすることをサボりたいだけだろうと言われたら、その通りだと答えてしまいそうだ。


『お嬢さん放浪記』は非常に気持ちがよくて、手ぶらでも楽観と交友関係を武器になんでも成し遂げてみせようとするミチコの快進撃に笑ってしまう。