2020.02.25

イブニング・フェイス。『源氏物語』は一話完結型の連ドラのような構成なのだけど、ウツセミとの関係が並走していたり、話を重ねるごとに登場人物が増えて、人間関係の変数が多くなり、動きが出てくる。連ドラの構成の妙は紫式部によって既に完成されていた。ウェイリープルーストにひきつけて考えたいようだけど、『源氏物語』は連載物としてかなり巧みで、たらたら引き延ばしていくこと自体の喜びよりも、積み重ねていくことのダイナミズムを志向しているのかもしれない。僕はプルーストの、しつこくしたくてわざとしつこくしているような文章が非常に好きだった。

長編ならではの、関係性の蓄積による複雑化の過程を楽しんでいくようなのも面白いのだけど、問題は僕が人の名前を覚えられないということで、すでに誰が誰だか分からなくなりかけている。いつものとおり特に気にしないで読み進めていく。肝心な行為はほのめかしや一言で済ませ、花がほころぶさまや、月と雲の配置について言葉を尽くす、その語り口がいちいち新鮮に感じる。行為と結果、主体と責任、そんなものよりも、出来事と過程、客体との同化こそが描かれる。それがいい。光源氏責任能力のある主体だと捉えるとただのクソ野郎なのだけど、あらゆる階級、あらゆる状況の生活を引き出す媒介なのだと読めばたしかにそこまで怒りは湧いてこない。近代以降の責任主体を想定して読むからクソ野郎! と怒りだす。そもそも自己責任も、新自由主義も、そんな言葉の発明される以前の人々の環世界を想像することすらできないのだとしたら、それは僕ら読む側の貧困だ。


今時点での「常識」では到底受け入れがたいテクストを、いま現在の視座から読み解いていくというのもまた必要な行為ではあるだろうけれど、まずはテクストの環世界をそのままに受け取ってみるような、フィールドワークのような読みの余地も残しておきたい。テクストを文字通りに受け取ることで、いま「常識」とされているものを解体する、それもほかならぬテクストの持つ機能なのだから。