2020.04.07

職場は阿鼻叫喚。一分一秒確実にすり減る。それで、作っているZINE をどう発表しようかとか、原稿をざっくり仕上げたりとか、日記本の最終チェックや、デジタルリトルプレス作りたいな、とか、とにかく自分のサイズで出来る楽しいことを考えていた。一人で出来ることはとても小さいが、とても小さいなりに、とても小さい範囲の世界にささやかな楽しみや喜びをもたらすことができる、といいな、と思う。少なくとも、僕自身が救われるのだから、やらない理由はなかった。とにかくやってみよう、ということを、なるべく沢山つくっておく。一人でやるのがもちろん身軽だし、こういうときにはいいのだけど、なんとなく誰かと作りたいような気持ちもあって、しかし特にまだ何も思いついてはいない。


二転三転と状況が変わっていき、つどつどの情報をきちんと取っておくというのはこういうときむしろ効率が悪い。途中からは決定事項だけを拾っていくように切り替え、それすらも何度も覆された。会社というのは、こんなに意思決定できる人がいないのか、と改めて驚く。


国家が強権を発動する正当性は、いつだって疑ってかかるべきだ。僕はいつ何時でも強くて大きい国家というものを望みはしない。自分のことは自分で決めたいと思う。僕の意思決定や自律を妨げているのは国家である前に会社で、だからまず僕と会社との関係性を見直すべきであり、国の意思決定の遅さや拘束力の弱さはむしろ望ましいことのはずだった。会社のダメさを政府のダメさと混同してはいけない。政府の健全な無力さと、会社をダメにしている政府の愚策とを丁寧に分けて考えなくてはいけない。

極端な行動の抑制はいつだって危うい。そうではなく、いま求めるべきは保障や支給による行動の支援だった。じっと家にこもることだって行動だ。政治とは、いうことを強権的にきかせるためのものではなく、いうことをきいてもらえるように各自の必要や我慢を調整するためにあるはずだ。

国が会社のように責任逃れや、なしくずし的な決定や、はしごはずしに勤しむ様には、ただただ憤りしかない。国は会社ではないので、国が経営の理屈で動いていることをあまり称揚してはいけないのではないかと思う。