2020.04.11

イギリスの内閣は下院の多数派を基礎としているために、内閣と議会とは密接に協力しあう関係にあるのが通例といえよう。内閣は議会に法案を提出することができ、しかも多くの場合それが可決されて法律となることも期待できる。他方、議会はその決定が内閣によって忠実に執行されることを期待できるのである。こうした制度の長所は、内閣が強力なリーダーシップをもって政治を行なうことを可能にすると同時に、内閣による統治のゆきすぎを議会がたえず抑制できるところにあるといえよう。しかし他方、議院内閣制のもとにおいては、多数党を基礎とした首相が独裁的に行動することも、制度的にはけっして不可能ではない。ただ、近代のイギリスの歴史はそうしたことがけっして起こらなかったことを示している。ディズレリィやグラドストンも、あるいは第二次大戦中のチャーチルも、首相として絶大な権威と信望とをもっていたが、独裁者になることはなかった。そこには自由と寛容の伝統が動かしがたく根づいているのであり、少数派の意見も常に尊重されることが、権力の濫用を抑止する力になっているのだといえよう。
したがって、こうした伝統をもたない国が議院内閣制を採用する場合には、そこに危険がともなうことも忘れてはならないであろう。議院内閣制は、責任の所在を明確にすることによって、国民による政治責任の追及を最大限に可能にするような政治制度である。しかし、責任の所在が明確になるためには、責任が集中されていなければならない。責任の集中は当然に権力の集中をともなうのであり、多数党とその指導者である首相に大きな権力が与えられているのは、こうした論理からしても当然であろう。そして、国民が政治的に成熟していて、不断に政治を監視し、責任を追及するような姿勢を保持している場合には、この制度のもとでも権力の濫用を避けることが可能なのである。しかし、もし国民にこうした姿勢がなく、 自由と寛容を尊重する態度も十分に根づいていない場合には、多数派による少数派の抑圧や権力の濫用が行なわれる可能性はけっして小さくないといえよう。
有賀弘/阿部斉/斎藤眞『政治 個人と統合』(東京大学出版会) p.119-121

 朝から『政治』。ちょっと辛くなってきたのでしばらく置くことにする。『案内係』を読んで、『我々は人間なのか?』を読み終える。

 

昼からは大学のころの友達に誘われて、LINE通話で飲み会。最初は四人だったが、酒が進むうちに楽しくなってきてあいつも呼ぼう、あ、あの人も、とどんどん招待して、最終的には三〇人近くを招待した。実際にいっときに集まったのは十四、五人だったけれど、随時共有されるスクリーンショットにスタンプで反応を返すメンバーなどもおり、おのおのの参加がなされていた。

ふだんの飲みの場では酔いに任せて電話をかけて、じっさいに足を運んでくれる人は稀だが、こういう会だと電話さえつながってしまえばもう参加ということになるので、それが面白かった。参加者も東京だけでなく、大阪や名古屋、あともっと遠いどこか、などに散らばっており、なかなか会えないような人たちとこうして一堂に会するような気持ちになれるというのは確かに楽しいものだと思う。嫌になったらさっさと切ればいいというのもまた気楽だ。だらだら飲んで、隣室では奥さんが高校の友達とオンラインでカタンを遊んでいた。外には出たいが、外に出ないでもできる遊びというのはいくらでもある。懐かしい声や顔が助けになった。

 

手書きでつけていた日記は一か月ほど空いてしまって、すでに一週間前の気分も思い出せない状況で、ちょっと復帰は難しいかもな、と思っている。日にちは開いてしまっていいから、書けるところから書いていこうとは思う。