2020.04.16

「music for fuzkue」の「ue」から「mu」へを何度も行き来する。そのためだけに端末を操作して、あとはずっと本を読んでいた。

ナチスのキッチン』を一節読むごとに、息抜きに漫画を読んでいた。漫画は久しぶりだった。楽しい。文字だけとは動きが違って、目がべつの喜びかたをする。


マンガ図書館Zを使った。内田美奈子『百万人の数学変格活用』がべらぼうに面白く、昨日までの『ハッピー・デス・デイ』もそうだけど、SFの要素を持った学園ものの気分のようだった。それからはずっと『ラブひな』を読んでいた。世紀末の少年漫画。二〇年前小学生だった僕は、近所のダイエーの二階の新刊書店で面陳されるエッチな表紙をドギマギしながら凝視して、もちろん買う勇気はなかった本だった。自宅待機令の下、人間関係というか社交というか、まだ安定していない状態の人間関係のサスペンスに飢えて、それらをフィクションに求めているようだった。この歳になって、読み出すとは思ってもみなかったに決まっているというか小学生の僕は三〇手前の僕のことなんて考えるはずがない。いまとなっては絵柄もそこまで扇情的でなく、この二〇年での絵柄の変化を思う。『ゆるキャン△』のほうがいやらしい気すらする。つとめて中学生男子の気持ちに戻って読んで、でもやっぱり微笑ましい子供の恋愛を見守るような気持ちで読んでしまって、無意味にやたら脱がされるようすはむしろ邪魔くさく、さっさと関係を進展させて欲しかった。つまりはかなり夢中になって受験や恋愛の行方にハラハラしながら読んでいた。成瀬川がとても可愛くて、恋かもしれなかった。これは人間への恋とは違うし、抽象的かつ神秘化された「女の子」へのときめきとも違った。雑な脱ぎに対する興奮でもなく、高度に記号化された「可愛さ」に対するポジティブな反応で、これを「萌え」というのかもしれなかった。一〇代の僕は「萌え」がよくわからなくて、オタクの友達たちの気持ち悪い性欲のオブラートに包んだ表現なのだと思っていたが、ちょっと違うのかもしれない。というか、三次元には興味がないという彼らの言葉は嘘ではなかったというか、二次元のよさは二次元にしかないというのが、次元に関わらず性欲を刺激されていた中学生の僕にはわかる余裕がなかった。なにせ「乳」という漢字一文字で興奮できるくらいだったのだから、そもそも僕に性欲を相対化する技術も知識もなかったということだ。あのころのオタク友達たちもぶっちゃけ性欲だけだったともうっすら思うが、「萌え」を密かに蔑視していたのは、僕の未熟さでもあったなと今更思う。失礼なことだった。でもやっぱり脱ぐ必要はないと思うが、脱ぐ描写がなければたしかに小学生の頃のむずむずした気持ちはないのかもしれないし、難しいところだった。今の僕は裸よりもただ楽しそうにしている姿が見たかった。はやく幸せになってほしい。恋の成就が幸せと等号で結ばれている世界観はかなり貧しいと思うが、彼女の配置された世界はそうなのだからしょうがない。幸せになってほしい。僕は何を長々と書いているのだろう。暇を持て余して僕は僕の世紀末と決着をつけ始めているのかもしれない。


ナチスのキッチン』読了。成瀬川はクリスマスの夜に「思い出の人」が自分ではないことを告げて走り去ってしまう。いいから早くくっついちゃえ!