2020.03.12

がらんとしたシネコンで『ミッドサマー』。ほとんどこれ欲しさに観るようだったパンフレットも無事買うことができた。ホルガでのサイクルを終えそうな年齢の一人客が二、三いて、カップルが二組という、鑑賞後に振り返ると何とも味わい深い人たちと客席を共にした。

『ミッドサマー』のいけすかなさは『ラ・ラ・ランド』のそれと似ている。アリ・アスターデイミアン・チャゼルとほとんど同年代だけど、それがあの屈託のない巨大な利己心とどれほど関連があるかはわからない。なんかある、と言いたくなるほど似ている。まだうまくは言えないが、端的に言うと、お前の人間観が僕は嫌いだな、というものになると思う。とにかくエゴがでかいというか、自意識と他者とをあまりに短絡してしまうのに非常に危うさを覚えるのだけど、つまりこれは「セカイ系」に対して僕が持っている嫌悪にちかいのかもしれない。『戦う姫、働く少女』にも『インターステラー』はセカイ系なのだというような論があったけれど、近年のアメリカ映画における「セカイ系」について体系的にまとめているような本が読みたい。


気にはなるがたぶん観に行かない、なぜなら集団の共依存というものがまじで無理だからだ。ネタバレに配慮しつつ映画の話をすると、奥さんはそう言った。観ていないくせに、『ミッドサマー』の居心地の悪さをかなり鋭く突いているように思えるので僕は感心してしまった。たしかに、奥さんは観ないほうがいいだろうし、観たとしてものすごく嫌いだろうと思える。しかし奥さんは「集団の共依存」とほんとうに言っただろうか。「集団内における共依存」だったか「共依存の集団」だったか「共依存によって維持される集団」だったか「集団によって促進される共依存」だったか書いているうちに自信がなくなっていくが、おしゃべりというのは便利なもので、奥さんが口で発し僕が耳で聞いた音はこのすべてのニュアンスを含んでいた。

僕たちはお風呂に入るときに指輪を外す。それで風呂上がりにはいちいち指輪交換をする。今日で結婚して丸四年で、だから先日もこうして指輪交換するのもなんだかんだ九〇〇回目くらいになるんだねえ、と話した。お風呂に入らなかった日や付けっぱなしだった日やどちらかが外泊した日のことを考慮して九〇〇回としたのだが、それにしても少なすぎやしないか。四年と言えば一四六〇日もある。どうやら僕はそのとき今日で丸三年だと勘違いしていた。先日いただいたお祝いのカードにも三周年おめでとうと書いてあって、ほんとうは三年というのが正しいのかもしれない。なんでもよかった。とにかく四年も指輪をなくさずにいられたというのは快挙だ、と奥さんは言った。自分は大事なものに限ってなくすから。大事なものが大事なままで、しかもなくさないで済んでいるというのは、たしかにすごくいいことだな、と僕も思った。

お互いに記念日というものをさほど特別視できない性分なのだけど、僕はせっかくなのでと奥さんの好きなハーゲンダッツの「リッチミルク」を買って帰った。同居人がプリンを作ってくれていたので、プリンにアイスを載っけて食べた。とてもおいしい。