2020.07.16(1-p.143)

僕は喩え話が下手だ。話をわかりやすくしようと例えれば喩えるほど事態はこんがらがっていくようで、余計にわかりにくくなる。奥さんには、うまいこと言おうという気持ちが先行しちゃってる、と言われたこともあるが、そもそもうまいことも言えていないので、ただ喩え切れていない半端な喩えだけがそこには発せられる。

マルクスは喩えが冴えわたっている。既存の経済学というものは、商品や価値がどのように生起するのかというそもそもの部分をまるで自明のもののように不問とするのでダメだが、そのくせそう間違ってもいない結論を導き出してきた。それは細胞をしらなくても筋肉の運動はある程度まで観測することができるのと同じことだ。序文ではこのようなことが書かれる。とにかくマルクスの比喩には強烈な揶揄がある。比喩は悪口を先鋭化させるためのツールなのだ。

こういうのもある。資本主義リアリズムにおいて、人々はどうしても商品というものを自明のもののように感じてしまう。それは商品というものの特殊性を知ってもなおそうだ。それは空気を諸原子に分解して理解できたとしても、人は依然空気を空気として吸うようなものだ。

 

マルクスの喩えたがりに僕は親近感を覚える。マルクスのイキりに僕は苦笑する。マルクスはとにかく「俺すごい」のために他人をサゲて自分をアゲる。学術の世間はつねにヒップホップのようだった。韻ではなく比喩に載せて、マルクスディスる。いわゆる「左」の人たちが、なにかにつけて友敵の対立を煽り、「闘争」に持ち込みたがるのは、マルクスの頃からのお作法なのかもしれない。というより、左右に限らずカール・シュミットの政治観は根強いのかもしれない。個人的にはまず友と敵を分ける発想をいいかげんやめればいいのに、と感じている。イシューすらも細分化していく状況では、党派的に対立項を次々に見つけていく作業はより一層分断を進めるだけで、建設的な合意から遠ざかるだけではないか。

 

きょうの併読本はブレグマンの『隷属なき道』。ベーシック・インカムについての論考だが、原題のほうがずっといい──リアリストのためのユートピア。「平等」という理念がもたらした全体主義ディストピアとしてファシズムとナチズムに並んで共産主義が置かれている記述があって、そうなんだよな、と思う。この三者のなかで、共産主義というものだけが、名前を替えることなしに負のイメージを払拭しようと努力を続けている。ファシストを自任することはどうしたって露悪的になってしまうが、共産主義者を名乗ることは必ずしも悪っぽくない。この違いは何だろう。前の二つは第二次世界大戦で敗けた、というのが大きそうだけれど、歴史はあんまり詳しくないまま推論で語るとよくないので、いつかちゃんと勉強しよう。