2020.09.27(1-p.325)

奥さんの散髪にかこつけて表参道のほうまで出ていく。読みたい本がわからなくて本棚の前でしょげかけたが、とっさに手に取った森毅を車内では読んでいた。森毅はこの一冊しか知らないのだけど、何を読めばいいかわからない時にこうして手に取り、読むたびに、読めるなあと思ってほっとする。

(…)そもそも、価値の多様化だの個性化だのが問われている時代に、価値の統一化だの標準化だのを考えるのが、まちがっている。あまり多様化して困るから標準化を考えよう、というのならわかる。ここでは順序が大事であって、多様化で困ってから標準化がなされるのがよい。さきに標準的な価値を作っておけば、そこでいくら個性化しようとしたって、序列化にしかならぬのは、理の当然である。 森毅『あたまをオシャレに』(ちくま文庫)p.28

二〇年以上前から人は同じようなことばっかり言っているから、情報革命によって人の意識が云々みたいなのは半分以上嘘だと思っている。今の状況は一見「あまり多様化して困るから標準化を考えよう」のようであるが、むしろ序列化を促進するような標準的な価値が先立っている。それがつまりは資本主義なのだと僕はマルクスは言いたいが、金銭をはじめとした数値に換算することでしか価値を理解できないような状況は、数値化できるような即物的なものが窮乏しているからこそ顕著になるものだ。僕たちにはモノが足りてない、と唯物論者としての僕は思っているようだった。FGO はかなり楽しいが、すでに愛着を持ってしまっている僕のサーヴァント達に実体はない。手に取ったりはできず、せいぜいバックアップを取っておくことくらいだ。携帯ごと手放さなしでもしない限り譲渡もできないので資産価値もない。動画や音楽のサブスクリプションもそうで、分け合うのはいいことだが、モノを所有するということの悦びはそこにはない。所有という愉悦。僕はそれを本で享けているが、本がなければなにを欲するだろうか。たかだかデータにすぎないガチャでは欲望が痩せ細るだとか、所有ではなくデータへのアクセス権を得るだけでは貧しいだとか、そういうことはもう僕は言えない。アビーちゃんや始皇帝の顔を思い出してしまうし、Apple Music で出会した音楽にもう何度も助けられている。けれども、だからといって所有そのものの楽しさを忘れることはできないはずで、でも忘れかけている気もして、その軋みが聞こえてくるような感じがある。

ドトールでもあたまをオシャレにしていると、より一層素敵になった奥さんがやってくる。ふたりで昼食に出かけ、ギャラリーをひやかし、ミルクシェイクを飲んだ。

立川まで移動して、シネマシティで『劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel]』を観る。面白かったがエピローグで何が起きているのか全く分からなくて、このラストをどういう気持ちで迎えればいいのか、解釈に迷うとか以前にそもそものとっかかりがなさすぎて途方に暮れた。ググって原作の各ルート分岐をざっくり把握し、ようやくなにかしらの納得をした。

オムライスを食べて帰る。