2020.10.14(1-p.325)

『暮らしの文藝 お金がない!』を読んでいる。さいきんはマルクスもあるし鳥瞰的な経済の話を読みがちだったので、こうして地べたからの、個々人のお金との距離感やつきあいかたを編んだ本の軽さが染み入るようだった。お金がどれだけ社会的なツールであろうとも、それぞれの個人にとっては具体的な生活の問題だ。もちろん大きな目線で個人のふるまいや価値観を規定する仕組みを理解しようとするのも大事だけれど、それで目下のじぶんの身の回りのことをおろそかにしてしまっては仕方がない。普段の生活における、それを形作っている仕組みへの見通しはそこまでよくないのがふつうだ。その見えていなさに自覚的であったり、たまに忘れたふりをして没入したり、そういう塩梅がだいじだった。
 
数々のブルシット・ジョブ。職場での不合理や不条理を、ベケットカフカになぞらえるのはありがちだが、それは会社や社会がベケットカフカのようなのではなく、ベケットカフカが社会をそのように描き出して形を与えたからこそ僕たちは会社や社会をそのような形として見ることができる。グレーバーがブルシット・ジョブとして抽出し、名付けたからこそ、形もなく捉えどころもないようだった会社の不合理な感じが、感覚ではなく具体的に指し示すことができるものになった。奥さんが毎年のように憂鬱になっていた毎年恒例の業務について、それはブルシット・ジョブだったんだと気づくだけで、別に状況は好転しないがブルシットなんだから憂鬱になっても当然だと思えて、毎度毎度憂鬱になること自体に自己嫌悪することがなくなった、それだけでもよかった、そう言った。
 
くたびれた帰り道、きょうは奥さんも外に出ていたので帰りの電車で待ち合わせて一緒に帰った。ドーナッツを買い食いした。一緒に帰って甘いもの食べてって、高校生のデートみたいだねとはしゃぐと、奥さんは高校生に「仕事帰り」という概念はないけどね、と返す。