2020.10.15(1-p.325)

今月に入ってからずるずると賃金労働に外に引っ張り出されていく感じで、在宅勤務のよさを痛感している。通勤で本が読めるのはいいが、生活のメリハリがつく以上に体力の消耗が激しいので、帰ったらだいたいのことができない。目の前で仕事してほしいのはマネージャー、要は管理者たちで、効率よりも目の前でしっかりと進捗を確かめられるという安心感のほうが優先されるということだった。こういうことはありふれていて、管理しやすさ、測りやすさが何よりも優先される結果、成果物そのものとは関係のない業務の量は増えていく。管理者が管理しやすい人間になるために、管理される側に一方的に押し付けられる手間。それをブルシット・ジョブとグレーバーは名付けた。
管理のための管理。システムが人間を快適にするのではなく、システムの円滑な動作のために人間が規律訓練される。デジタル化というのは多かれ少なかれそういう側面を持っているわけで、年寄りからの反発や無理解も、まったくのナンセンスというわけでもない。デジタルネイティブとか呼ばれてる世代の少なくない層が、驚くほど権力や制度や社会通念のようなものに対して従順なようなのも、当然っちゃ当然かもしれない。計算間違いからこそ自由は生まれるのだから。
プラットフォームから自作するべきなのだ。他人の敷いた前提のもとでしか思考できないというのは不自由だ。不自由がそのまま悪だというわけでは全然なくて、野放図なより制限があってこそのびやかにあれたり可能性が開かれたりするのだから、ある程度の不自由はあったほうがいい。それでも、不自由の質が一個や二個しかないのはやっぱり窮屈だ。どんなルールのもと、どんな制約を引き受けて遊び始めるか。それくらいは選ばせてほしい。道具から思考が始まるのではない。使用者がどの道具を使用するか選びあぐねるところから始まる。
 
はてなブログの広告がどんどん鬱陶しくなるからnote に戻るかもしれない。でもそれもどうだろう。