2020.11.02(1-p.325)

松井さんに、本誌の感じだとあと半年とかで完結するかもしれないからそれまで待ってもいいかもしれないと教えてもらった『チェンソーマン』を昨日限界を迎えた精神で五巻まとめて買って、けさ八巻まで買った。既刊はこれで揃えてしまったことになる。すげえ面白い。さいきん奥さんと話していたのは、鬼滅の熱狂がわからない、熱狂はいつだってわからないものだが、どこに熱狂しているかを読み解くことはできる、そうして読み取った構造に対して感心したり冷笑したりできる、でも鬼滅はそもそも誰が何に熱狂しているかがわからない、という悩みで、これはみんなが面白いと思っているものを面白がれない自分の特異性を得意がるような幼稚さではなくて、面白がれないとき、だいたいは面白がれない側が悪いのだから、面白がれなさを悔しがっているということなのだけど、ヒット作を語るとき、どうしても小さな個人のいやらしさが読み取れてしまうような文体になりがちでだからヒット作を語るのは難しい。

 

それで『チェンソーマン』は心底面白がれたからだいぶホッとしている。表層的でその場限りのルッキズムや情動に拘泥し続けてしまう様を突き放すような冷徹さで描くのは『ファイアパンチ』から引き継がれた態度で、人を食っている。社会のセーフティネットからこぼれ落ちてしまったアウトサイダーが、組織に包摂されることで自己実現を果たしていく、というのは王道の少年漫画の展開だ。海賊もそうだし忍もそうだしふんばり温泉もそうだし鬼殺隊もそうだろう。そんななか、どん底の経済状況にあったデンジを包摂していくように見える国家機関は、デンジのことを犬としてしか見ていない。デンジは結局社会からの疎外からは表面上免れているように見えて、結局は誰からも認められていない。認められているとしたら、その能力や特異性といったものだけで、人格は問題になっていない。だから教育の機会のなかったデンジはいつまでも社会化されない。ただ目の前の欲求が満たされればそれでいい。デンジの状況はたしかに悲惨だが、この悲惨さには見覚えがある。生産性という名のもとに、人格でなく能力としてだけ社会に居場所を与えられるというのは、なにも漫画の中だけの話でもなく、ありふれている。

 

という上の御託はぜんぶどうでもよくて、何が起きるかわからないままずっと読んでいられる、すげえ面白い漫画が『チェンソーマン』で、すげえ面白いと上のような御託を述べたくもなってくる。きっと鬼滅もそういう御託がたくさんあるだろうと思って読んだこの記事が面白かった。

長男だから我慢できた、というセリフにウケながらもドン引きしていたのは、そこに悪しき少年漫画の家父長制を見ていたからなのだけど、この記事を読んでむしろ、少年漫画というフォーマット、さらには大正という今以上にジェンダーバイアスのきつい時代に舞台を設定しながら、根底にあるものはむしろダサい男性性の相対化する態度だったのかもしれない、と思えてきた。やっぱり長男ネタはギャグだったのだ。

たしかに、大正という時代を加味するならば、善逸の人気もわかる気がする。おのれの助平心を隠そうともせず、守る側ではなく守られる者としての男。それは硬派を男の規律としていたであろう時代においてどれだけ逸脱した存在であるか。男らしさから降りる、そのロールモデルとして善逸というのはあるのかもしれない。そういえばデンジも守られる側にいる。