2020.11.17(1-p.365)


アーレントマルクス』を読み終える。とてもいい本だった。アーレントの「世界」を制作する「仕事」の再評価、というのはそれこそ青木さんと百木さんのイベントのさいにセットでついてきた『失われたモノを求めて』でも中心に置かれていたアイデアで、僕はやはり唯物論者なのだろうな、モノ大好きだもんなという思いを強くした。
 
テーブルと椅子があって初めて人は食卓を囲むことができる。食事を準備し、楽しむことは生命維持に欠かせない反復運動という意味で「労働」であり、語らうことは「活動」である。アーレントが最上のものとした「活動」は、「仕事」によって作り上げられ、メンテナンスされてきた具体的なモノ=「世界」がなければ、そもそも現れるための足場がない。日々の生存を旨とする生命活動としての「労働」に塗りつぶされてしまったら、「活動」する暇もないどころか、「世界」が先細っていく。僕達が、異質な他者として、複数性を損なわないままに出会うためには、流動的な状況のなかに打ち立てられた安定した場所、「世界」が必要なのだ。僕たちはモノがなければいることも、いつづけることも、いかたを変えることもできない。「活動」や「労働」は、その性質からして儚い。常にプロセスとしてしかありえないのだ。だからこそ、その儚さを仮留めし、行為者よりもすこしだけ長持ちするモノが必要になってくる。
僕は構造主義者だとも自認しているが、ここでいう構造とは、アーレントの「世界」、具体的なモノのことだと言っていいかもしれない。
 
そのままの勢いで久しぶりにマルクスを開く。よお、久しぶりだな。相変わらず悪態がすごいなあ。

2020.11.16(1-p.325)

久しぶりに早起きだったから緊張してさらに早い時間にぱっちり目覚める。すると11時からに遅らせて欲しいと連絡があって、二度寝するのももったいないし、コーヒーを淹れてフレンチトーストを作って、同じくあまり眠れずに早めに起き出してきた奥さんと食べた。きのうは疲労ですっかり忘れていたポッドキャストの録音もした。

 

そのへんぶらつきながらお話しできたらな、と早めに家を出て、松井さんと合流してからは街のここ数年の移り変わりの話を面白く聞いたり、文フリのことを打ち合わせたりした。今日もぽかぽかと暖かかった。時間になって中村さんと合流して印刷の立ち会い、惚れ惚れする出来栄えで、マスクの下ではにやけっぱなしだった。お二人はてきぱきとチェックすべきところをチェックし、僕は二人の後ろでただ嬉しくなっていた。

帰りには中村さんお勧めのうどん。つゆがおいしかった。なんだかいい話を色々と聞いたり、喋ったりして、ああ、嬉しいな、とまた思う。並んで歩くと松井さんも中村さんも背が高くて、奥さんは僕より二〇センチ以上小さいから、人を見上げるのは久しぶりで、大きい、と思う。『ハイキュー!!』に出てくる子たちのこと、かわいいと思ってたけど、大きい男子って怖いな、と思い直す。かわいいけど。

 

嬉しいことや楽しいことも、緊張──「ハイテンション」って言葉、最近聞かなくなった──を引き起こす外部刺激という意味でストレスなのだ。ひとは身に余る嬉しいことがあると寝込むということがわかった。帰ってからは寝込んでいた。お腹も壊した。単純に昨日の疲労と寝不足がたたってる。

起きたら元気だった。賃労働でくたびれた奥さんと気分転換の夜の散歩をして、ごはんを食べて、お礼のメールを書いて送る。

2020.11.15(1-p.325)

昼からキンコーズに『ZINEアカミミ』の第二号を刷りに行く。きょうはいつも以上に店員さんがにこやかで親切だった気がする。短縮営業によって負荷の軽減があったのだろうか。そうであればいい。働きすぎるのはよくない。じっさい18時の閉店間際に人がどっと押し寄せていこうは見慣れた対応だったのだから、余裕は人をいい感じにするというのは間違いがなさそうだった。

昼から行ったのに閉店間際までいたというのは、今回も印刷にかなり苦戦したということだった。無料配布用の四つ折りの冊子は印刷自体は簡単だったが、古いデータを擦り出してしまって誤字が誇らしげに存在感を醸し出していてつらい。七〇部くらい刷ったときに気がついて、呆然としているうちに予定していた一〇〇部が刷り上がってしまった。そうこうしているあいだに本誌の表紙を準備する奥さんは用意していたデータで思ったように色が出ず、サイズが合わず、その場で色々と手を尽くしてみるも自体は好転せず、悄然としていた。あんなに竦然とした顔、なかなか見ない。深呼吸の必要があり、何度か外に出て行った。喫煙者はこういうときに吸いに行くのだろうな、と思う。煙でなくとも呼吸のために休憩を堂々ととらせて貰えばいいのに。

ぐっしょり疲れて、近くのサイゼでただ甘味だけがファストに伝達されるものを食べて脳に最速で栄養を送る。それをくそまずいコーヒーで流し込み、あまりのまずさに一瞬シャキッとした。それでまたぐんにゃりした。

帰宅して残作業を終えて、荷造りまでやりきった。すごいと思う。

最後の方はお互い無口だったが、こうして自分の好きで始めたことに苦労してくたびれきってああもう面倒だなあとなっている、これこそが楽しい、みたいなところがあって、僕たちはもう疲れ切ってイライラもしていたが、僕はなんだか満足でもあった。

2020.11.14(1-p.325)


賃労働。


あとはびっくりするほど記憶がない。13日の日記から16日の10時前にこうして書いているが──日記とは──流石に三日分溜まってしまうと何も覚えていないものだった。たぶんひたすら虚数の海を探索していたのだろう。
 
これは日記でいうと明日奥さんと話すことになるのだけど、僕は本もFGO もどちらもただ楽しみとして読んでいるけれど後者の方はなかなか面白く日記に書けない。人によって進行度が違うからネタバレを避けたいというのもあるし、たぶんにソシャゲのあるいはソーシャルの内話性というか共有すべきコンテクストや語彙のまちまちさなどが原因なのだけどとにかく面白いソシャゲ語りというのが僕は上手くできなくて、本を読まずにゲームばかりしていると日記が面白くなくなる。
その面白くなさに落ち込むのは柿内さんなのかあるいは本名としての僕なのか、アバターやキャラクターに人格を乗っ取られるようなことを僕も引き起こしているのだろうかと明日の僕は奥さんに話し、しかし柿内正午はかなりごきげんで理想的なやつだから、本体の不調で偶像に迷惑をかけるのはふつうに気持ちのいいことではないよね、というところに落ち着いた。
僕は──この僕は誰だ?──柿内正午という偶像を私生活を送る僕を揺るがす悪者にしたがるくらい弱っていたが、むしろこの偶像をちゃんと面白いものに保つためにというモチベーションでいい方向に引っ張ってもらえてるのだから、都合よく使っているのは本体の僕の方だったし、本体も何もどちらも僕が勝手に名乗っているだけなのだから、どちらも僕で当たり前だった。
 
 
 
 
 
 
 

 

2020.11.13(1-p.325)


相変わらず賃労働に忙殺されている。


とはいえきょうは在宅だったので、『ハイキュー!!』を観ながら手を動かしていた。みんなかわいい。素直ないい子ばかりで、ニコニコしながら見守ってしまう。少年として少年漫画を楽しむ季節は終わったのかもしれなかった。いつまでも少年の心を、っていうのは、ある種の地獄だ。奥さんは夜は会社の打ち上げとのことで外で食べて帰ってくる。昨晩の麻婆豆腐をつけ麺の汁にアレンジして乾麺を二玉茹でて食べた。奥さんが絶賛していた『クイーンズ・ギャンビット』を始めて、三話まで。アニャ・テイラー=ジョイの顔がひたすら良い。ルッキズムへの批判は僕はどうしても腰が入り切らず、それはやはり映画において、いい顔とはいいものだからだ。これは美学的な感覚であり、ただ美に留まれば悪くはないというか、人はどうしても真善美をセットに捉える感覚がまだ残っていて、真と善と美はぜんぜん別物としてありうる、という考え方もありうるはずだ。弟が最近そんなことをツイートしていた気がする。アニャ・テイラー=ジョイの完璧な顔について、奥さんと称え合っていたら、そんなことを思い出していた。

2020.11.12(1-p.325)

寒くて噛み締めや強張りがひどかったようだ。起きてもなかなか動き出せないでいて、気分もだいぶ不安定だった。一生懸命また石を集めたが、ネモは来ず、それで落ち込んだのかと思ったが、そうではなくこれは寒いからだった。ネモは奥さんが朝イチで引いており、悔しい。隣のカルデアは明るい。

 

プルーストを読む生活は人に読ませる前提で、日記かというと日記とも言い切れない、日々のことよりも日々の考えを書くようなスタイルを貫いていたが、こちらに戻ってからはむしろ日記然としたことばかり書く。そうすると外への意識が鈍するようで、わかる人にだけわかればいいというか、読み返したとき僕だけがわかればいいというような書き方になる。それでも僕は内輪受けが嫌いで、だからこそわからないものを書くのなら徹底的に誰にもわからないものを書きたかったが、人の生活の独自性などたかが知れているので、どうしたって誰かにはわかることしか書けない。それで別によかった。

 

賃労働の忙しさが少し和らぎ、ふっと気が抜けてこの寒さだ。心身ともにガタが来ている。忙しさを言い訳に、これから先の予定が何も準備できていない。慌てて文フリのことなどを考え出している。

2020.11.11(1-p.325)

コツコツと貯めた石60個を一気に砕いてなおネロは来なかった。まちがえた、ネモは来なかった。これは日記だが最近はもうその日にその日を書くということがないのでいっそそれに開き直って翌日に見かけたツイートを引くけれど、友田さんがこう言っていた。

内輪受けが嫌いで、自分が書く文章やトークで絶対にやりたくないのですが、こないだからそもそも内輪受けってなんだろうとずっと考えていて、それは内輪にしかわからない話題のことではなく、他人にわかるように努力していないことなんだと気付いて腑に落ちた。つまり話題ではなく、話し方の問題だ。

http:// https://twitter.com/tomodaton/status/1326576232670978048?s=20

 本の話は僕は他人にわかるように意識せずとも開いていけるがたぶんそれは本というものの読み方が既に他人に開かれるような読み方だからだ。本と同じように僕はFGO が好きだが、こちらは他人にわかるように書くことができないでいる。ほかのソシャゲ狂いの文章を読んでもやはり内輪受けを感じることが多い。これはもしかしたらソシャゲというものがアプリを落としたユーザにだけ届けばいい、内輪に対して依存症的な快楽や射倖心を掻き立てることが大事だ、というような設計だからかもしれず、しかし、本もそう変わらない気もする。それでもやはりソシャゲの方が本よりも他人に開く可能性を感じづらいのは、ソシャゲは内に引き込むもので、本はどうしたって外へ漏れ出てしまうものだというところに正体がありそうだった。なんにせよ、どちらも僕には楽しいが、楽しく語れるのは本のようだった。

 

アーレントの活動・仕事・労働という区分を、人々をどれかのクラスに当てはめようとするゲームの設定だとして読むと見誤る。そうではなく、本来そのように区別できていたものが、渾然一体となっていることをこそ問題とするためにアーレンとはこの区分を持ち出した、というところが面白くて、『アーレントマルクス』は面白すぎてまるで既に読んだことのある本のように染み渡る。『失われたモノを求めて』においては仕事としてのモノの制作を取り返そうぜというようなことが書かれていてそれはとてもしくりきたし、僕もそういう気持ちで本などを作っているのだけど、そうした個人の規模での制作とは、工業化されすぎないことで仕事に留まり、労働にならずにすむための工夫なのかもしれないな、と思う。打って出る市場が大きすぎては労働になる。孤独でないと制作はできないが、孤立してしまっては仕事はできず労働になってしまう。孤立した労働に活動的な性格=コミュニケーションが付与されがちな世の中で、活動への通路は、孤独な制作からこそ切り開かれるべきだと僕は考えているようだった。ひらきすぎてはいけないし、自分で引き受けすぎてもいけないのだ。一人ぼっちでモノと接するような、そういう態度をもっと大事にしたいと思う。