2020.11.03(1-p.325)

疲れが限界なので、休みは秋葉原の楽スパでひねもす過ごした。お風呂入って、交互浴して、漫画読んで、食べて、揉んでもらって、漫画読んで、お風呂入って、交互浴して、食べて。こういうただ休むこと、ただ体を労わるような過ごし方がちゃんと娯楽になるというのは大人になった感じがするねえと奥さんは言った。漫画の他にも持ち込んだ本を読んでいて、はじめに『本を気持ちよく読めるからだになるための本』をいい湯加減で読み終えた。

そこからは健康ランドで読みたい本ベスト10に入るであろう『健康禍』を読んでいた。悪態が冴えていて楽しい。引用されるド・モンドヴィルが言う「誰にでも同じものが当てはまると信じる者はみな大馬鹿者である。医学は人類全体に対して実践されるのではなく、すべて個別の顔を持った個人に対してなされる。」というのは、鍼灸のスタンスにも響き合うようだった。規格化・標準化を前提とした全体最適への対抗としての個別具体的な処置。

 

自然に帰ることを人は繰り返し夢想してきた。人生の複雑さに立ち向かえない人、万華鏡のように正体のつかめない工業化された社会よりも単純な世界のほうが好きな人、幼児に戻って母なる自然の優しい乳房に顔を埋めたい人。森の中で裸で跳ね回る人もいるかもしれないが、ほかには自分の「オーガニック」野菜を育てる人、サンダルを手作りする人もいる。もっと哲学的な精神の持ち主は、人類と宇宙のホリスティックな調和というユートピアの夢想を召喚する。こうした罪のないあこがれは、健康主義のイデオロギーによって鎖につながれ、政治的運動へと作り変えられる。こういうロマンティックな風潮は人の結びつきが失われた時代に花開くものである。つまり伝統的な権威の偶像が倒れたときに。むなしさとさびしさ、未来への恐れが「緑の」思想を拡散しやすくする。

ペトル・シュクラバーネク『健康禍』大脇幸志郎訳(生活の医療社) p.61-62

 

 

ここに、環境問題をイデオロギーとして扱おうとする態度との付き合いかたにどこか落ち着かなさを感じている僕は、なにか反応するようだった。マッサージを受けながら、それが何か考えていたのだけれど、すぐにまどろんでしまって、どこからが夢かもわからなかった。

2020.11.02(1-p.325)

松井さんに、本誌の感じだとあと半年とかで完結するかもしれないからそれまで待ってもいいかもしれないと教えてもらった『チェンソーマン』を昨日限界を迎えた精神で五巻まとめて買って、けさ八巻まで買った。既刊はこれで揃えてしまったことになる。すげえ面白い。さいきん奥さんと話していたのは、鬼滅の熱狂がわからない、熱狂はいつだってわからないものだが、どこに熱狂しているかを読み解くことはできる、そうして読み取った構造に対して感心したり冷笑したりできる、でも鬼滅はそもそも誰が何に熱狂しているかがわからない、という悩みで、これはみんなが面白いと思っているものを面白がれない自分の特異性を得意がるような幼稚さではなくて、面白がれないとき、だいたいは面白がれない側が悪いのだから、面白がれなさを悔しがっているということなのだけど、ヒット作を語るとき、どうしても小さな個人のいやらしさが読み取れてしまうような文体になりがちでだからヒット作を語るのは難しい。

 

それで『チェンソーマン』は心底面白がれたからだいぶホッとしている。表層的でその場限りのルッキズムや情動に拘泥し続けてしまう様を突き放すような冷徹さで描くのは『ファイアパンチ』から引き継がれた態度で、人を食っている。社会のセーフティネットからこぼれ落ちてしまったアウトサイダーが、組織に包摂されることで自己実現を果たしていく、というのは王道の少年漫画の展開だ。海賊もそうだし忍もそうだしふんばり温泉もそうだし鬼殺隊もそうだろう。そんななか、どん底の経済状況にあったデンジを包摂していくように見える国家機関は、デンジのことを犬としてしか見ていない。デンジは結局社会からの疎外からは表面上免れているように見えて、結局は誰からも認められていない。認められているとしたら、その能力や特異性といったものだけで、人格は問題になっていない。だから教育の機会のなかったデンジはいつまでも社会化されない。ただ目の前の欲求が満たされればそれでいい。デンジの状況はたしかに悲惨だが、この悲惨さには見覚えがある。生産性という名のもとに、人格でなく能力としてだけ社会に居場所を与えられるというのは、なにも漫画の中だけの話でもなく、ありふれている。

 

という上の御託はぜんぶどうでもよくて、何が起きるかわからないままずっと読んでいられる、すげえ面白い漫画が『チェンソーマン』で、すげえ面白いと上のような御託を述べたくもなってくる。きっと鬼滅もそういう御託がたくさんあるだろうと思って読んだこの記事が面白かった。

長男だから我慢できた、というセリフにウケながらもドン引きしていたのは、そこに悪しき少年漫画の家父長制を見ていたからなのだけど、この記事を読んでむしろ、少年漫画というフォーマット、さらには大正という今以上にジェンダーバイアスのきつい時代に舞台を設定しながら、根底にあるものはむしろダサい男性性の相対化する態度だったのかもしれない、と思えてきた。やっぱり長男ネタはギャグだったのだ。

たしかに、大正という時代を加味するならば、善逸の人気もわかる気がする。おのれの助平心を隠そうともせず、守る側ではなく守られる者としての男。それは硬派を男の規律としていたであろう時代においてどれだけ逸脱した存在であるか。男らしさから降りる、そのロールモデルとして善逸というのはあるのかもしれない。そういえばデンジも守られる側にいる。

2020.11.01(1-p.325)


昨晩のファミレスでのおしゃべり。
座りの悪さが好きと言うか、ヒロイックに自分のあり方を一意に決め込んで安住する態度が嫌いなのだというような話をした。真理だ。
 
 
今日は非常にやばい一日で、そうなることがわかっていたから上のメモを残していた。
電車の中で正気を保つためにKindleで『チェンソーマン』を買って読んでいた。帰宅するともう僕は何も判断できないでいて、ただアムウウウウムウウウウウと唸る怪物になった。
奥さんはそれで悲しんで、きのう日記を前もって書いていたでしょう、今日のあなたは最悪だから期待してない。せめて昨日の理知をいまちょうだい、と言った。メモは先に書いただけしかなかった。それで、これでは足りない、でも書き足すにはもう気力がないと応えた。その家は悲しみに包まれた。
 

 

2020.10.31(1-p.325)

束の間のお休み。西荻窪へ。久しぶりのSPOON で美味しいカレー、前菜セットにして、ワインまでつけちゃう。ワインには弱いので、ふたりともふわふわとする。湿気も少なく、日差しがまっすぐに目に届く。アイラインをばっちり引いて睫毛も逆立てた奥さんはすこし頭が痛そうだった。
念願の本屋ロカンタンに行く。SPOON の順番待ちの間に下調べのつもりでオンラインストアを覗くと『アーレントマルクス』がある! 先日の青木さんと百木さんのイベントで気になりつつも版元在庫なしで諦めていた本だった。ドキドキしながらお店に向かって、こうしてる間にもオンラインで全部売れちゃうかもしらない、とやきもきしながら見つけて、嬉しい。映画の本とディスクが充実していて、『マル秘色情メス市場』のDVD を買うか一瞬迷いつつ、結局は古書の庄野潤三が取られて、題は野菜讃歌とあった。いいタイトル。店主の萩野さんは『アーレントマルクス』を見て、レジで嬉しそうに声を上げた。こんないい本は重版してもらわなきゃね、だからここでしっかり売っていきたいんです、とおっしゃっていて、よかった。読むのが楽しみだ。
BREWBOOKS に向かって、店主の尾崎さんにこんにちはして、納品。二周年とのことで、めでたい。開店してままない頃だったはずだけど、その時ここで『心のクウェート』を買ったのだ、みたいな話をして、フジモトマサルやビールの本を買って、2階でビールとおつまみをいただきつつ、本をかわるがわる開き、うとうととしていた。いつ来ても隣の公園から嬌声が漏れ聞こえてきて、それがなんともいい心地だった。男の子はどうしてもドロケイがしたい。三回くらい元気いっぱいに提案して、めげなかった。おれやっぱりドロケイがしたいなあ!
他に移動するかどうしようか迷っていたけれど、気がついたら夕方だったのでこのまま西荻窪を散歩することにしてFALL に向かう。この前岸波さんとお話しした時くら「雑貨の終わり』はここで買うと決めていた。間柴さんのオブジェも一緒に買う。何年前なのだろうか、僕がまだFALL をFALL と認識せずただ西荻窪を散歩する中でふらっと立ち寄ったいい雑貨屋だったとき、展示をしていたのが間柴さんだった。いまではSUNNY BOY BOOKS を経て好きな作家であるがその時はまだ名前も知らない作家の作ったものを感じがいいなと眺めていたのをいまでも覚えている。その間柴さんのちっこい立体も一緒に買った。三品さんはコクヨ野外学習センターのポッドキャストで聞いた通りの声で、一言二言間柴さんの話を聞かせてくれた。
荷物も増えてきて、お茶にしようとこけし屋を覗くとカフェは時間外で、台湾茶のお店は感染症対応でカフェを閉めていた。諦めて歩いてみたがウレシカも休みで、メテオは今日はちょっと違った。
てきとうに甘いもの、と思って群言堂のカフェで休むと疲れがどっときて、諦めて帰った。帰りにバブのいいのを買って、お風呂入って奥さんにマッサージしてもらい、近所のファミレスでてきとうに夕飯を済ませる。お風呂とマッサージで僕は復活したらしく調子良く理知的にしゃべる。きょうは僕のお買い物につきあわせるばかりで、そのくせ気の利いたおしゃべりも出来なかったけど、ここにきて楽しく面白い話ができたねえ、と満足げに言うと、奥さんはにっこり笑って足を揉んだ甲斐があったわ、と言った。

2020.10.30(1-p.325)

今日もまたメールの嵐の合間に猛然とメールを打っていた。多動。過活動。半分の熱量はあきらかに明るい未来を作り出している。もう半分には賃金が発生している。後者については動きすぎたら損なので、すこし悔しい。

いい体が欲しい。元気な体は本を気持ちよく読めるからだ。そういうわけでショートショートを読みながら、浦和まで鍼灸を受けにいったことを思い出す。あれは気持ちがよかったな。またやってもらいたい。

東洋と西洋という二項対立は、二項対立というのがすべからくつまらないようにつまらなく、そこで言われているのは全体の中でのバランスを模索する知のあり方と、部分における最適解を追求する知のあり方とは、あり方が違うよね、という話のはずだった。前者は感覚、後者は論理と言われることが多いが、どちらも知的な行為であり、どちらかだけではダメなのだ。

賃労働の現場が忙しくなればなるほど、全身をめぐる血が冷たく鋭くなっていくようだった。自分はこんなにぞっとするような声音で話せるのだな、と静かに静かに理詰めで状況を腑分けしようとする自分の声を他人のもののように聞いていた。はたから見たらいつもとかわらず、甲高い声でテンパっていただけかもしれないが。

くたびれて帰るとすぐに日付が変わる。このままじゃ終われねえ。そう思って奥さんにSlack で駅まで迎えに来て、そして僕と夜のお散歩に出かけませんか、と提案した。返事はなかった。LINE のほうに「Slackみて」と送る。既読はつかない。祈るようにしてもう一度送った「みて」もどこにも届かない。自分で自分のご機嫌を取ろうといろいろやってみてダメで、他人に助けてもらおうとしても空振りで、あまりにうまくいかないのでかえって気持ちは明るくなった。

ようやく気がついた奥さんは、玄関の前で待っていてくれた。三歩で終わる廊下を、お散歩、と称して八歩くらいかけて歩いた。

2020.10.29(1-p.325)

昨日更新分のオムラヂを聴きながら出勤。録音された夫婦の会話は無観客試合のようなものだった。わざわざ耳を傾けないと取りにいけない場所で、でも独善的になりすぎるわけでもなく為されるおしゃべり。今週も面白かったし、今週もどこかほかごとを考えながら聞いていたので、はんぶんくらいはたぶん聞き逃している。

ここ最近は賃労働がつらくしんどい時期で、でも楽しいことも充実していて、公私共にすごく動いている。あっちこっちに連絡をして、もろもろを調整して、頭を絞って、気遣いをなるべく忘れず、それでも忘れて恥入り、というのをずっとやっている。賃労働のノリで、とにかく速く多くのことを処理する、という動きになっていて、ひとつひとつのメールの速さが、相手への嫌なプレッシャーになってはいまいか、となんとなく心配しつつ、賃労働の現場ではプレッシャーをかけてかけられて、その速さのまますべての連絡を行っていた。

そうやって作っていただいているものは、どんどん出来上がりが楽しみになっていって、まるで他人事のようにすごいすごいとはしゃいでいる。

2020.10.28(1-p.325)

この半月ほどの仕事場の椅子が合わない。五分も座れば血流が滞り、座骨から肩甲骨のあたりまで熱を持ち出し鼻が詰まり寒気がするようになる。こんなことではマルクスも読めない──驚くべきことにまだ「マルクスを読む生活」のつもりなのだ。マルクスと生活の相性の悪さはもう十分わかっているし、この一か月一回も『資本論』を開いていないにもかかわらずだ──ほかの本も読めない。
 
そこで休憩時間に急いで本屋に走った。『本を気持ちよく読めるからだになるための本』を買うためだ。検索機に打ち込むと三冊あると出る。「実用:東洋医学」の棚だ。実用?
こういうどこに挿せばいいかわからないような本が好きだ。収録されているショートショートも体験の言葉もホームページで読んでいたが、とにかく体がつらい、紙と向き合うからだを整えたい、とすがるように買った。やっぱり「しゅばっぐんづぁーもんどぃやぁーッ」でゲラゲラ笑った。
 
遅くまで働いて帰るとくたびれていて怪獣のようだった。最悪。奥さんに背中をもんでもらって、ようやく人らしくなった。労働で思いやりやら気遣いを棄損されるの、マジでむかつくな、と思いつつ、どうしてもやられてしまうから労働は強力だった。でも、たぶん勝てないわけじゃない。戦う必要すらないかもしれない。戦いの比喩はいつだってがさつだった。
本を差し出す。奥さんも「しゅばっぐんづぁーもんどぃやぁーッ」でゲラゲラ笑った。
 
食後に校正の確認に返信する。「のびびのび」という誤字に奥さんがまたケラケラと楽しそうに笑った。ツボに入ったらしく、いつまでも「のびびのび」と歌うように呟く。