2020.03.11

寝ても覚めても』読了。映画から入ったけれど、小説はもちろん小説でしかできないことをやっていて、すごい、と思う。映画もまた映画でしかできないことを沢山やり遂げていて、どちらもすごい作品だった。柴崎友香は僕は実は『公園へ行かないか? 火曜日に』が大好きだけれどほかの本を読み終えたことのない作家で、『よう知らんけど日記』は思いついたときに読み進めているのでちょっと違うが、『その街の今は』と『ビリジアン』は買って数ページ読んでそのままになっている。このへんで読めるようになっているかもしれない。

小説ではカメラと目というのが重要な役割を追っていて、それは視覚情報そのものというよりはそれぞれの機械/器官を使っていかにして見ているか、そして何にも見えてやしないか、ということを徹底的に書いていく。それに応答するように、カメラと目によって表現される映画版においては、川と地震を中心に置くことで、人間関係の流れとゆらぎを描き切る。

信頼できない語り手。この言葉をちゃんと意識したのは最近で、たぶんテジュ・コールからだった。それまでは書かれていることは信頼できなくて当たり前、というような態度で読んでいたのだけど、テジュ・コールに至って、信頼してないつもりだったけどここまでショックを受けるということはなんだかんだ読者はその語り手の語りに依存せざるをえないのだということを痛烈に思い知ったからだった。それで『寝ても覚めても』の語り手も、笑ってしまうくらい最初から信用ならないのだけど、この信用のならなさをカメラの前で体現してみせた唐田えりかはすごいな、それを体現させてしまった濱口監督は怖いな、と改めて感心する。そして信用のならなさがそのまま主題の体現となっている小説もまたこわいくらいの完成度だった。映画でも小説でも、恋愛というものを信じていないというか、不気味なものとして冷徹に見つめているようなところがあって、僕は好ましく思う。


昨日の反動で今日は気圧がどんどん上がっていく。奥さんは谷底に落ちて上向くその瞬間が苦手で、だから昨晩はうまく眠れなかったかもしれない。僕は気圧と共にテンションが上がるので、今日は元気がないわけではない。でも、昨日は一日ほんとうにぐったりしていて、そのダメージをすこし引きずっているようなところがある。肩甲骨のあたりの筋肉が熱を持っているようで、何度も伸びをして、肩を回す。嘘みたいに暖かく、週末にはまた冷え込むらしい。週末は絶対に体調が悪い、と思うと今からぐったりしてくるようだった。つまり、やっぱり元気はない。


信頼できない語り手といえば、こうして公開を前提に日記を書くその書き手というのは、その最たるものだった。それは本当は僕は本を読んでいないかもしれないし、奥さんは妄想かもしれないし、僕は会社員ではなく中学生かもしれない、というようなことではなく、僕はわかりやすく嘘をつくつもりで嘘をつかなくても、書くというのは書かないということでもあるのだから、意図してであろうと、何ということもなくであろうと、日々の出来事は書かれないままでいることのほうが多いのだから、その出来事を僕がそもそも認識できていないというのも含めて、この日記は僕が何を見ていないか、何をなかったことにしているかの記録でもある。書かれた生活だけを読んで何かを感じたとしても、それは誰かがあえて書いた生活の一側面でしかない。日記はわざわざ書かれるもので、その作為から取りこぼされるものもまた作為によって選ばれている。