2020.08.15(1-p.220)

チェックアウトの一時間前くらいまでゆっくり寝る。とはいえ枕が変わるとあまり寝付けず、寝た気はしないし、じっさい何度も目が覚めた。隣で奥さんが何度も掛け布団を奪っていくので、その度に起きた。寝ている奥さんは傍若無人でかわいい。

海鮮が食べたいという気分で一致しており、開店したばかりのスシローに行った。回転寿司。その給仕を全自動化するというスタンスは、いまこそ先鋭だった。奥さんはボックス席がある、ファミリータイプの回転寿司は初めてだというのではしゃいでいた。車社会を生きたことのない奥さんと僕とでは、休日や家族でのお出かけの記憶というのがずいぶん違うのだろうな、と改めて思う。子供の僕にとって家族で遠出した夜ごはんは最寄りのインターチェンジからアクセスの良い吉野家のテイクアウトかスシローかで、それもお出かけの楽しみだった。開店したばかりなので回ってくるのはわさびと広告だけで、注文すればすぐに出てきた。一時間もすると満席で、レーンを流れるネタも増えてきた。そのころにはお腹がいっぱいで、もっと食べたいのに、おかしい、と言い合いながらおひらきにした。

きょうはどうしようか、まんがぱーくでも行くか、せっかくここまで来たから中央線沿いで寄り道するか、などと相談していたのだけど、暑すぎてどうしようもなかったし、睡眠不足でもあったので、ちゃんと寝られる布団のあるところに帰ることにした。電車ではFGO をやっていた。まだよくわからない。特に初めはロードがやたらに長くて、この待ち時間は、お腹が痛くて駆け込んだトイレで個室が一個しかなくてしかも全然空く気配がない時のじりじりした感じによく似ていた。だんだんサクサク進むようになってきて、そうすると読み物に近づいていく。絵のテイストのまちまちなこと、紙芝居を見せられて楽しめるだろうかという懸念は、やってみるとそこまで気にならず、これはいちいち全部に絵がついてるラノベなんだな、とラノベを読まないので微妙だが、読む体験としてはそういう感じっぽかった。バトルは要らなかった。ガチャを引く人の気持ちがすでにわかりかけているというか、ただのデータにあんなに一喜一憂する気持ちが謎だったのだけど、いざ始めて見るとすでに可愛い絵のやつを自分の手元におきたい、せっかくだから、というような気持ちになっていてすごかった。まだ状況と操作の説明という段階なので、誰が欲しいとかはわからないが、わからないからこそ、星5が欲しかった。ボードリヤールだかの言う「他者の欲望を欲望する」というやつだ。とにかくみんなが欲しがっているカードが欲しい! なぜならそれは価値が高いから! というしょうもなさ。それを僕も持っている。これは推しがいないからこそ前景化する。推しができたら、推しのレア度など関係がないし、関係がないからこそ希少価値の高い推しを推してしまった場合かんたんにお金を溶かせるのだろう。よう知らんけど。これから知ってく。

 

なんでこうも簡単に五万とか使っちゃったかな、と、これまではタブレットでやっていたけれど、ポータビリティを高めたいアプリをiPhone に移行しながら考えていた。いままでもタブレットで十分足りていたわけで、スマホは必須ではなかった。それでもこうしてあると楽しい。しかし楽しさのためだけに五万が払えるか。帰りに読んでいたのは『本の読める場所を求めて』で、ちょうどしっくりくる一説に出喰わす。自分のために安くはないお金を払うこと、それはセルフリスペクトなのだ、という話。自分に、もっと敬意を払っていこうね。

何にどれだけ払うのかを選択するという行為には、「自分に対する値付け」という側面がある。たとえばお昼ご飯。380円の牛丼か、500円の弁当か、1400円のパスタか……。どれもおいしかろうが、選んだものの値段によって変動する精神的な満ち足りがある。「いいのか、こんな贅沢。いや、ここのところずっと忙しかったし、たまには」と迷いながら1400円のパスタを選んだときにもたらされる、「今日の自分はこの食事をするに値する人間である」という、自尊心、誇り。このとき、「安くはないお金を払った」ということ自体がセルフケアのための見逃せない要素になっている。浪費とは祈りだ。
阿久津隆『本の読める場所を求めて』(朝日出版社) p.224

『本の読める場所を求めて』のすごいところは、fuzkue という場所がなくてはならないものになっている僕にとっては、「知ってる」と感じることしか書いてないところだ。ここに書かれていることは、すべて、fuzkue というお店にある。あの空間であの時間を過ごすことでわかることしか書いてない。つまりこの本は、空疎な理論ではなく、実践の言語化がある。実践の言語化はじつは難しくて、特にプレイヤー本人にとって「知ってる」ことは、すでに血肉にあっているから、わざわざそれを腑分けして言語化するのっていちばん面倒臭いというか、バカみたいに感じがちというか、そんなのいちいち言葉にしなくてもよくね? となりがちなところのはずだった。面倒くさいから、ちょっと背中から学んでくれる? OJT でいいよね? 言わなくてもわかるよね? そうなりがちな現場の知を、ここまで文字化できることのすごさ。システム構築の際、ここまできれいに要件定義できたら最高だよな、というユーザーへの解像度の高さ。汎用性を捨象する潔さ。ぜんぶ気持ちがいい。なによりも、肝心の要件が人文知に、人と人とが敬意を払い合うことに設定されていること、それが決してブレないことにグッとくる。

個人のスタンスを文字化すること、伝達可能な形を与えること、それは相当気をつけないと汎用性のある、誰のためでもないフラットさに決着してしまいがちだった。そうではなく、個人の欲望を肯定し先鋭化するためにこそ、文字が言葉がフル活用されているという事態がすでに救いだった。読みはじめは、この文体は横書きの方が映えるんじゃないかな、などと異和を感じたが、むしろこういうパーソナルな文体でないと、万能薬といわけではないけどめっちゃ使える本、という感じにはならなかったのだとわかった。 fuzkue は最高。またお金を払いに行きたい。

 

マリー・アントワネットの、想像力の限界に自覚的な育ちのよさが好き。